2/12シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団@サントリーホール

何かを言いたくなる演奏会と何も言いたくなくなる演奏会というのがあって、例えば去年の12月にKing Crimsonが来日してオーチャードホールで公演をやったのだが、まあコレを見せられてはなんというか何の言葉も紡げないなという気分にさせられた。「Sailor's Tale」でフリップの高速アルペジオがスゲー!とか「Starless」のメル・コリンズの演歌サックスがサイコー!とか「21st Century Schizoid Man」の3分に及ぶハリソンのドラムソロ激ヤベー!とか、そういう感じの頭の悪い感想は幾らでも出てくるのだがはっきり言ってそういうのはどうでもいいというか、わざわざ言葉にしなくてもいいかな…という、ある種の投げやりな感覚(勿論それは大感動しているからなのだが)を覚えてしまう、というのが後者のそれである。で、今日聴いたカンブルランのマーラー7番は確実に前者で、それは何も言葉にできる程度の良さとかそういう訳ではなく、何も言えなくなるそれとは別種の素晴らしさがあったということだ。カンブルランがバチっとハマったときの魅力は、あまりに自明で、言語化可能なので、聴いているこちら側が試されているような気さえする。音楽を言語化することの聴き手側の傲慢さと自意識の葛藤はとりあえず脇に避けるとして、何かを言いたくなる類いのものの優れた感覚というのは、ともかくそういうものなのである…。

 

・ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト-セレナーデ第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク

Twitterでも言ったのだけど、マーラーの7番が「夜の歌」だからコンセプトを夜にしよう!となったのはまあ良いとして、なんでよりによってモーツァルトのこの曲なんだ、と思ってしまったキモいオタクは果たして自分だけなんだろうか…。同じ夜だったらシェーンベルクの「浄夜」とかストラヴィンスキーの「夜鳴き鶯の歌」とかあるじゃん!?シェーンベルクストラヴィンスキーが重過ぎるとすればメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」を体よくパッパッと組曲抜粋して20分前後でやっちゃうとかさー、色々あるだろ!!カンブルランにしては安直な組み合わせだな、と思ったので、読響事務局の「マラ7でただでさえ人集まらないのにいつもの組み方されたら困ります」みたいな圧力があったのか?みたいな邪推さえしてしまう。そんなこと言ったら2013年だったかのウストヴォーリスカヤとかブリテンを前プロに据えてメインがストラヴィンスキーの「詩編」だった時とかどうなっちゃうんだよ…(ガラガラでした)。しかし、この考えは全編聴いた後で変化することにはなるのだが。

プログラムの不平不満はさておき、演奏は良かった。カンブルランと読響のモーツァルトは40番と41番を聴いたことがあるのだが、本当にモーツァルトで良い演奏を聴かせるのは途方もなく難しい訳で、一番のモーツァルト演奏における厳しさはやっぱり色彩感なのだと思う。その2曲も決して悪い演奏ではなかったのだが、弦楽器のテクスチュアがどうしても平板になってしまう部分などは耳にするたびむずがゆい思いがしたものだ。今回の「アイネク」はそういう色彩感はほぼ満足行くレベルでクリアされていて、しかもカンブルランお得意のデュナーミク操作が随所でピリリと利くので、人口に膾炙したこの曲を下品で過剰な味付けをすることなくフレッシュに聴かせていた。3楽章で弦楽器が全奏のユニゾンで漸強する部分のヴィヴィッドかつ肉感的な響きは、読響がいよいよもって「カンブルランのオーケストラ」になってきていることの証左なのだなと感慨深くもなり。

 

・グスタフ・マーラー-交響曲第7番ホ短調「夜の歌」

カンブルランのマーラーを聴くのは2010年の10番アダージョと「大地の歌」、2013年の6番と来て今年の7番なので、通算4回目になる(2010年の4番は聴き逃した)。10番、大地の歌、6番に通低している彼のマーラーの特色は、全体の異常にドラスティックな描き方(往々にして結構速めのテンポ設定)と強靭なドラマトゥルギーによる全体の統一感であると思う。ストラヴィンスキーベルリオーズではリリカルな美感と局部肥大的な細部へのこだわりが歌となって溢れ出てしまうのがスキャンダラスな魅力に繋がっていたが、マーラーに関してはかなり意識的に異なったアプローチを取っているように聴こえる。特に2013年の3月に聴いた6番は2楽章をアンダンテ、3楽章をスケルツォに設定する変則バージョンで、殺伐とした空気を前半2楽章で作ったあと、後半2楽章でその荒涼をぶち破り、一気にカタルシスに持って行くというかなりいびつな演奏だった。色彩感をあえて抑えたような響きもあまりいつものカンブルランのスタイルからは見受けられないもので、知人は彼の6番をマーク・ロスコの絵に例えていたけれども、なるほどそういう殺伐とした単色の力強さがカンブルランのマーラーにみなぎっていたのは事実だろう。

が、今回の7番は6番のようにガチガチソナタ形式かつ明確なドラマを持っていないどころか、完全に交響曲というジャンルの中で破綻している奇形児みたいな曲なので、どうアプローチするのかなと思っていたら、いつもの彼のスタイルと、それとは異なるマーラーにおける方法論をうまくミックスしたハイブリッドのような7番で、これはかなり成功していたのではないか。7番でマニエリスム的なアプローチを取ると収拾がつかなくなって演奏者は爆死するが(クレンペラーみたいな超絶技巧の演奏もあるけど)、しかしマーラーの体臭はかなりキツいというウルトラC級難易度の曲に対して、「全体から描いて行く」というカンブルランのマーラーへの取り組みと本来持ち合わせている抒情味(決してロマンティックにはならない)が非常に高いレベルでの融合を見せていた。1楽章は鬼門というか色々な主題が魑魅魍魎の如く現れては消えていく難しい楽章で、解決策としてはテンポ設定をいじくり倒してブロックごとで提示する作戦(クレンペラーやフェルツなど)、全部のテーマをガッツリ歌い込んでマーラーキッチュな歌謡性に耽溺する(バーンスタインベルティーニなど)などがあるが、カンブルランはこの楽章をバルトークの「オケコン」のように処理してしまった。名手が次々とカッコいいソロを披露するカデンツァが入れ替わり立ち代わりする洒脱な感覚は、明らかにこれまでのカンブルランのマーラーとは違っている。冒頭のテナーホルンによる主題提示はユーフォニアムによる演奏だったが(吹奏楽に噛んでる人間としてはなじみ深い外囿さんだった)、そのソロイスティックなスタイルがしっかりプレイヤー全員に意識として行き渡っており、まさに耳のごちそう(許光俊風)といったところ。チューバの次田さんとバストロの篠崎さんのソロ上手過ぎて変な息漏れた。途中2楽章のソロホルンでHiCとHiDesが一発で当たり切らずずり上げて当てたり3楽章でカンブルランの棒に反応しきれないというような部分はあったものの、4楽章ではゆっくり目のテンポで適度なエモさを振りまく。4楽章はロスバウト/SWFの演奏がマジで激烈にエモい(冒頭のソロ・ヴァイオリンから猛烈に歌う。あとギターの音がデカくて良い)ので音源の聴き比べで喜ぶクラシック音楽キチガイヲタク諸賢には是が非でも音質の良いPhoenix盤を手に入れて聴いてほしいのだが、カンブルランは節度を保ちつつも、ギターの主題がやわらかく波になって広がっていく部分の処理などは珍しいぐらいに歌っていた。歌ってもベタっと響きが粘着質にならないのは丁寧な音の作り込みの賜物でしょう。5楽章は根がマニエリストのカンブルランにとっては居てもたってもいられなかったのか、相当いじくり回した跡が見える怪演。冒頭のコラールでエゲツないスビト・ピアノをキメる部分のしてやったり感で思わず笑ってしまう。うまい人がやってもどうにもくどくなってしまったりうるさくなったりしてしまう楽章だが、カンブルランは細部の彫り上げに意を徹することで下手にまとめようとしたりせずに、パラレルな楽想の配置がクライマックスで強引にC-durで解決するムチャな構造の面白さを出来るだけナマの形でポンと見せていて、なんというかその手があったのか…という感じ。バッハだったりワーグナーだったり(フーガで展開していってラストは根こそぎ金管と低弦のギラギラした長調の響きで持っていくという辺りは5番5楽章の完全な上位互換という気もする)、でもやっぱりマーラーだったりで、最後はダメ押し的にホルンとトロンボーンでグリグリと盛り上げ、ラストは打楽器も総出で聖性と俗性のド真ん中でバカ騒ぎするこの交響曲をカンブルランは余裕綽々の響きでたっぷりと鳴らす。この感じはベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のラストでも味わったけど、明らかに5,6年前とは比較にならないレベルでこのコンビは進歩していて、来期も楽しみになるな、と思わせる演奏会なのだった。

 

全体として感じたのは、マーラーの7番は確かに交響曲としては紛うことなく完璧に破綻しているのだが、ソロイスティックに楽器をフィーチャーしたかと思えば神秘的に歌ってみたり、不気味になったり、センチメンタルになったり、でも結局最後はアッパラパーなトゥッティで〆るって、なんだかオペラ・ブッファの妙な躁鬱性を感じたりもする。で、そういう分裂的なオペラ・ブッファの感覚を最も自家薬籠中のものとしていたのは、やっぱりモーツァルトなのだ。「コジ」のブッ飛んだ倒錯性、「魔笛」の何か方向性を間違えているオカルティズムと胡散臭さといった「逸脱」が、「喜びの絶頂で幕が閉じられなければならない」(ショーペンハウアー)喜劇の方法論にほとんど無理矢理押し込められているモーツァルトのオペラ・ブッファ。すると、この奇妙な符合は、最初自分がブーブー言っていたモーツァルトマーラーの「夜の歌」という組み合わせを何やらものすごいコンセプチュアルな意味付けの誘惑へと自分を追いやるのである…(カンブルランのファンはなんでもかんでもプログラムを意味付けしたがる傾向にある)。9月のトリスタンはぶっちゃけカンブルランの要求が高度過ぎてオケも歌手もついてこれていなかったような印象があるので(トリスタン役が最初から最後まで瀕死状態だった…)、いずれ馬力のあるオケと歌手でカンブルランのオペラをかぶりつきで聴きたい。というか、かなり伸びてきているので、あと5年と言わず3年でそのくらいのレベルに達してくれ、読響。頑張れ、読響(何様)。