12/4シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団@サントリーホール

いきなり大上段に構えるというか風呂敷を広げるのもどうかと思うが、自分ははっきり言って今のクラシック音楽界全体になんとなく絶望している。それは何も日本のシーンに限った話ではなくて、世界規模でクラシック音楽という芸術が昔(思い浮かべる「昔」はフルトヴェングラートスカニーニの活躍していた40~50年代でも、ヴァントとチェリビダッケが幅を利かせていた90年代でもいい)持っていたアクチュアリティ、またこの横文字が抽象的に過ぎるならばクラシック音楽しか持ち得なかった終わりなき日常からの突破口とでも言うべきものに対して無関心になってしまったのだと思う。レブレヒトの露悪的な著書を挙げるまでもなく、クラシック音楽シーンという極めて特異な空間は常に、いつの時代でも「巨匠(マエストロ)」を欲した。ところがこのジャンルの宿命である再現芸術のあり方というのは時代の趨勢によって移り行くものであることは自明であって、もう分厚い弦と倍管編成でモーツァルトをやる時代ではなくなったし(それが良いか悪いかは別として)、クラシック音楽の世紀は演奏解釈が様々なものになり演奏家が互いの方法論を認め合うポストモダニスティックな時代となった。その中で、19世紀後半〜20世紀前半の香りをコンサートホールで伝えてくれる人々というのはアンビヴァレンツな魅力に満ちていたのであり、そういった人々が「巨匠」と呼ばれていたのだと思う。しかし2010年代に突入して、次々と前時代のオーラをまとった巨匠達は鬼籍に入っていった。代わりに残ったのは腐敗した指揮者コンクール制度と商業主義的なレーベルのマーケティング(とはいえクラシック音楽のマーケティングなんてたかが知れているのだが…)のみであった。かつてコンサートホールに、コンサートホール「だけ」に現れていた、終わりなき日常の破れ目はもう縫い合わされてしまったということを、痛烈に感じずにはいられないのである。懐古的だと、あまりにも感傷的だと言われてもしょうがないかもしれない。クラシック音楽は今やエンターテインメントであり、日常をブチ壊す何かではないんだから今のクラシックを楽しむことが一番健全なやり方なのではないか、と。しかし、自分はクラシック音楽は救いであり、演奏会の2時間だけは自分をどこか遠くへと連れ去って行ってくれる何かであり、またそういう芸術であってほしいと本気で思っている。例えそれが21世紀を迎えた今グロテスクなリスナーの考えであったとしても、その想いが捨て切れない故に今のクラシック音楽界には絶望しているとさえ言えてしまうし、そのことはとても悲しいことだ。

 

のっけからしょうもないネガティブな自分語りをしてしまったが、今回のカンブルラン/読響のタッグが成し遂げたそれは、結論から言ってしまえば上記の今のクラシック音楽界における一条の希望の光のような、まだこの世界に見切りをつけることは早いと思わせてくれた素晴らしい演奏だった。ところどころほつれはあっただろうし、決してメシアニストであるカンブルランからすれば完璧な「トゥーランガリラ」ではなかっただろう。しかし、そこには誠意と情熱があった。サントリーホールに会した、この演奏会に「挑もう」とする聴衆に対してカンブルランと読響は絶対に手を抜かなかったし、その姿を見て自分は伝統でも革命でもない、全く新しいクラシック音楽の手触りを感じた。そして、このような演奏にまだコンサートホールで出会うことが出来るのならば、もう少し日本のクラシック音楽界に、もしくはこの今のクラシック音楽に対して希望を持ってもいいのかも知れないと柄にもなく思ったのだった。

 

酒井健治-ブルー・コンチェルト(世界初演

日本初演は何回か生で聴いたことがあっても世界初演というのにはついぞ立ち会ったことがなかったが(今年度自分が所属する団体で世界初演の作品を演奏するのだが)、やはり何かこれまで音として(物理的現象として)形になったことのない作品が目の前で再創造されていくプロセスに立ち会う瞬間は気持ち良い緊張感と期待感がホールを満たしている感覚が確かにあって、あーこの感じ久しぶりだなあと妙な感慨に襲われた。カンブルランはまあ案の定というか、こういった作品に対しても非常にこなれている指揮ぶりだったし、読響も響きのフォーカスが曲の出だしからビシッと定まっている感覚があって世界初演に相応しい演奏だったのではないかと。演奏会後の評判を見ると「トゥーランガリラ」のインパクトが強過ぎたのかあまりこの曲に対する感想を見かけなかったのだが、作曲者の酒井自身もそのプログラム・ノートにおいて陳述している通りメシアンへの強烈なオマージュとして作品の一定の強度は保たれている気がした。特に、響きへの感覚という視点で酒井はメシアンに対して並々ならぬリスペクトを惜しまない。楽曲後半において連発されるトゥッティの弦楽器と木管のオスティナート、そこに被せられる鍵盤系を中心とした複雑怪奇な打楽器群がどこか密教的な妖しさと、しかし矛盾を孕む形で清冽な感覚が同居しながら音楽全体のテンションが高揚していく感覚はまさにメシアンのそれであり、楽曲のそこここに潜む「トゥーランガリラ」のコラージュのみを取り上げてメシアンからの影響を指摘するのみでは終わらない面白さを持った作品である。演奏時間も17〜20分と手頃なサイズだし、Twitterで見かけた意見では「トゥーランガリラ0楽章って感じ」とあったが、まさにそのような意匠で作られている上にそれだけでは決してない、「今」の作曲家にしか出来ないことを「過去」の作曲家に向けたパスティーシュとして(決して陳腐な懐古趣味としてではなく)行っている点においてもこれからもっと演奏されていい作品だろう。惜しむらくは特殊打楽器の多さとそれに対して演奏効果が聴いた限りではそんなに上がっていないのではないかという部分だが(ウォーターフォンとかTwitterで読響打楽器の人が宣伝してたけど、動きを見ないとどれがウォーターフォンの音なのかまるで分からなかった)、まあこれは最後に押し寄せる音の波のカタルシスに比べれば些細な問題だ。演奏終了後、壇上に登ってカンブルランと酒井がお互いを讃え合うところで酒井がガチガチに緊張しているのを見てそりゃ緊張するよな、と卑近な親近感を持ってしまった(図々しい)。

 

オリヴィエ・メシアン-トゥーランガリラ交響曲(ピアノ:アンジェラ・ヒューイットオンド・マルトノ:シンシア・ミラー)

ここでまたしょうもない自分のオタク自分語りをさせてもらうと、自分がカンブルランの存在を知ったのは2009年で、当時ベルリオーズの「幻想」他を読響でやって評判が良かった云々、みたいな評が当時の読売新聞に掲載されていて、誰が執筆者だったかはもうよく覚えていないがその文を読んだ当時の自分は何故かめちゃくちゃ興奮した。当時からギーレンやらロスバウトやらを聴いてはブールの音源欲しさにディスクユニオンに通っていたようなガキだったので、まず「透かし彫り」とか「精緻な響き」というこの辺の指揮者には常套句のパンチラインに悶絶、次いで現在のポストはSWR響とのことで、こんな指揮者が日本のオーケストラの常任になるのかと考えただけで生きる希望が沸いてきたのをよく覚えている。そこから半年後ぐらい経って、カンブルランの読響就任記念演奏会に足を運んだ。実はこの「就任記念」の演奏会は二回あって、一つは定期におけるシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」を中心とするプログラム、もう一つはまさに「就任記念」とだけ題されたメモリアル・コンサートで、こちらはストラヴィンスキーの「春の祭典」が中心のものだった。そのどちらにも自分は足を運び、まだ両者の間に硬さはあるもののカンブルランが読響から引き出してきた透明でありながら豊潤な妖艶さを含んだ響きに陶酔したものだった。以後、ディスクを買いライブに足を運ぶ立派なカンブルランのオタクになった訳だが、何が言いたかったのかというとアイドルオタクっぽい言い方をすれば「カンブルラン読響就任記念新規」(超バカっぽい)であった自分にとっては、彼が初登場の2006年において演奏した「トゥーランガリラ」を聴くことが出来なかったのが何よりの無念だったんだ、という話で、何度彼のメシアン・ボックスで2008年にSWR響と録音したトゥーランガリラを聴きまくりながら何度2006年の公演に思いを馳せただろうか。ということで、本公演の「カンブルランのトゥーランガリラ」を聴くことは自分にとっての一つの夢だったのでありまして、自分の感想には少し誇張や脚色があるかもしれないが、それもまあ自分にとっては一つの真実であるということで(軟着陸)。

まずカンブルランという人はそれこそエゲツないくらい録音とライブでのアプローチが違う。彼のライブにおけるアプローチの根底にあるのは、「響き」と「グルーヴ(律動)」である。そんなの音楽においては当たり前なのかもしれないが、音楽が時間芸術であることのアプリオリな定めとして、音楽作品には必ず「構造」がつきまとう。数々の指揮者を初めとする演奏家が「いかに『構造』に則った演奏をするか?」に腐心してきたことは自明だが、そんな中カンブルランの方法論は明らかに異色だ。彼は構造には興味がなく、その瞬間、そのフレーズにおいていかにして響き(音色と言い換えてもいい)とグルーヴが絡み合い、フィジカルな快楽をもたらすかに対して動物的なまでに過敏に反応する。響きが響きを呼び、律動は次に来るべき律動を予感させなければならないという哲学は必ずしも全ての作品に効果的な結果をもたらす訳ではなく、例えばベートーヴェンにおける超高速テンポはガチガチのソナタ形式を瓦解させかねないほどだし、構造を失ったベートーヴェンは時に背骨を抜かれた人体のようにグロテスクに響く。表面は違えど、かつてチェリビダッケが指揮した同じ作曲家を思わせないでもない。しかし、ことオリヴィエ・メシアンという作曲家に対しては、「まさにこれだ!」と快哉を叫びたくなるほどに彼の方法論はピッタリとハマる。坂本龍一メシアンを従来のフランス音楽の文脈から逸脱した天才である、もしくは逆説的にフランスにしかないド派手な悪趣味スレスレのロマン主義の末裔としてメシアンを「第2次世界大戦後のベルリオーズ」と評したが、カンブルランがベルリオーズも得意レパートリーに入れていることを我々は忘れるべきではない。

そもそも、この「トゥーランガリラ」の背景にあるのは、メシアンの信仰であるカトリックインド哲学の奇妙なドッキングである。ヨーロッパ的戒律は東洋的な「愛」の思想によってドロドロに融解し、性的エクスタシーの完全肯定(この曲冒頭に現れる「彫像の主題」は勃起したペニスを、直後に聴こえる「花の主題」はヴァギナを、雄大で官能的な性格を持ち何度もモティーフ的に登場する「愛の主題」はその二つの主題の合一=セックスを表しているというのは日本を代表するポスト・メシアン作曲家である西村朗の弁である)を経て普遍的な「愛」が数々の混沌を解決しないまま強引に光の向こう側へ連れ去ってしまう化け物のようなこの作品を、カンブルランは連関と分断の差異を鮮やかに強調することによって響きの運動性を高めながら、決して皮相なスポーティさに堕することなくメシアンの「愛」を告発する。特に、この演奏会における1~5楽章のアプローチは超絶的であった。早めのテンポでオーケストラをドライヴしながら、各主題、動機を巧みに描き分けている。1楽章主部におけるグロテスクな管楽器とジュ・ド・タンブルの主旋律の下でヌラヌラと不安定なシンコペーションを刻む弦楽器が、次の小節では突如としてエロティックな歌をじっとりと歌い上げるその「分断」を官能的と言わずして何というのだろうか。2楽章後半部の濃密な盛り上がりは執拗に7分以上をかけて繰り返される2つのフレーズがあってこそだが、その積み重ねにおいてもカンブルランは1回の繰り返しごとに追い込むことをやめないし、そこからもたらされるカタルシスは絶大だ。実際、2楽章が終わった直後はそのあまりの熱量に涙してしまった。一つの主題が空間的に呼応することによってのみ音楽の造形が縁取られる3楽章、あらゆる要素がパラレルに配置され結果的に一つの響きへ収斂していくことそのものが感動的な第4楽章を経て、怒濤の5楽章へと雪崩れ込む。まあこういう時には言葉は無力だなと感じるしかなくて、とにかくオケが崩壊するギリギリのハイスピードで、しかし浮かんでは消えるその響きの跡には淡く階層化された色彩が滲んでいた。カンブルランは音楽にノると膝を低くして(重心を下げて)全ての指揮ぶりがオケに向かって前のめる感じで拍を取るのがあまり見られないというか特徴的な動きなのだが、ここ4〜5年彼の指揮する演奏会に足を運んできてあんなに激しい「例の見振り」を見たのは初めてである。

こんな感じで全楽章に言及していくと切りがないのでここら辺にしておくが、その10楽章においてハイテンションでガチャガチャと鳴りまくる全ての楽器が、最後「愛の主題」の出現によって一つになるとき、そこには決してドイツ音楽などには見ることの出来ない、ある種の奇形的なドラマトゥルギーがあの瞬間に宿っていたことは確かで、突然うるさくなったり突然静かになったりという音楽が聴き手の生理を超越して繰り返され、それがまた唐突に、誰も意図しないところで機械仕掛けの神か最後の審判のごとく巨大な「愛」という抽象的なテーマに向かって止揚するとき、聴き手はただそこにぽっかりと口を開けた巨大な官能の渦に身を投げ出される。その、ただただなされるがままに底の知れない愛の響きに包まれたとき、人が覚えるのは安堵でも平安でもなく、恐怖と隣り合わせの快楽である。カンブルランと読響は、もしかしたら作品がその形を保てるかどうか分からないぐらいの危険性を孕むほどのスリリングなアンサンブルを乗り越えて聴き手をそこに投げ出してくれたし、あの時確かにサントリーホールに居合わせた聴衆の多くはその響きにどっぷりと淫していたと思う。そして問答無用に上り詰める最後のクレッシェンドで、またしても落涙。ホント、カンブルランに出会えて良かったなと、心から思った演奏会でした。

抽象的なことを言い過ぎたので少し音楽評論っぽいことを言っておくと、ヒューイットのピアノはオケに寄せ気味の響きで自分は嫌いじゃないんだけど、彼女のバッハ演奏においても言えることだがヒューイットの持ち味はその端正でキリリと辛口なタッチとそれを包含する深く長い呼吸のフレージングであり、そこがこの作品の持つある種の狂気に対してチギれてしまう瞬間というのは少なからず見受けられた所。また、ミラーのオンドはそこまで自己主張をすることはなく、あくまで弦楽器の色づけとしてのオンドとしての役割に徹していた印象。アレの仕組みはよく分かっていないんだけど、演奏途中でゲインを上げたり出来ないのかなあとか思う。3楽章とか6楽章でグオングオンオンドが鳴っていたら静謐さも何もあったもんじゃないので今回の演奏会ぐらいの音量で良いんだけど、5楽章や10楽章のグリッサンドは録音でさんざっぱらこの曲を聴いてる人間からするとプログレのシンセ顔負けの爆音でカマしてもいいんじゃないかなと思ったり思わなかったり。まあ、BRで今回は聴いてたけど、1階前列の人はオンドがデカ過ぎてキツいと言っていたし、ホール全体を考えたら適切な音量なのかもしれませんが。あとは、基本的にカンブルランとオケには自分は絶賛のスタンスだけど、決してほころびやミスが無かった訳じゃなくて、むしろところどころ「ヤバい、崩れる!」と思うような瞬間はちょいちょいあった。しかし問題はそこではなくて、オケの練度を超えたところでカンブルランは音楽をやろうとしていたし、恐らく読響もそれを分かっていたから今回のような演奏会が成り立ったのだろう。

 

演奏が終わった後、深い感動と共に虚脱感に襲われた。それはやっぱり、自分のクラシック音楽体験においてずっと渇望していた「カンブルランのトゥーランガリラ」を生で聴くことが出来て、しかもそれに裏切られるどころか期待を上回るものを見せてくれて、充実したと共に5年間楽しみだったものが終わってしまったことに対する惜しさみたいなものなんだろう(遠足を終えた小学生みたいな感想だ…)。しかし、来年の夏には今度はシュトゥットガルト国立歌劇場のメンバーを引き連れて、読響でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を演奏するというのだからまたこれは楽しみな事柄が出来たし、またこの演奏会を聴くまでは死ねないな、と思った。そしてまた冒頭の大上段の話に戻るが、自分はクラシック音楽というのはこういうものであってほしいと痛い程に思うし、というより自分の好きなものがシーン全体としてそうあってほしい。始まる前はそれが生きる理由になるほど楽しみで、接している時はそれが最高の幸せで、終わったら充実感の少しの悔しさがあって、そして次の機会をまた楽しみにする、という幸せの無限ループが出来るだけ長く続けばそれ自体がもう最高に幸せだ。「『それ』を体験するために生きている」と思わせてくれる何かがいっぱいある世の中なんて最高だけど残念ながらそうじゃないから自分はクラシック音楽とアイドルが好きなのであって、そしてせめて好きなものだけは心からそうあってほしいのだ。クラシック音楽界を含めたこんなどうしようもない世の中が、終わりのない日常がもしかしたらその好きなものに触れ続けることでどうしようもなくなくなる瞬間が訪れてとんでもない非日常への扉が開くかもしれないと思わせてくれるという意味で、カンブルランと読響は自分にとってのアイドルなのである。クラシック音楽、カンブルランと読響、やっぱり最高だ。