マエストロの死に際して思うこと

昨日、リコーダー奏者または指揮者のフランス・ブリュッヘンが亡くなったとの報せを聞いた。先日はロリン・マゼールの訃報に接したばかりだった。思えば今年はクラシック音楽界の「最後の」という枕詞で語られることが多い1930年代生まれの名匠が次々と旅立っていった年で、まず今年の始めにアバド、アルブレヒトマゼール、そしてブリュッヘン(ホルヴァートはよくあの年まで生きたなという感じだが)と、こう立て続けに亡くなられると悲しさとか悔しさとかではなく、ただただ喪失感を覚えるばかりで。とりわけマゼールブリュッヘンの死は中々込み上げるものがあった。マゼールは実演を聴くことこそ叶わなかったものの、彼のディスクには色々な場面で接して来た。バイエルン放響とのR.シュトラウスの真摯で豪快な音楽、若かりし頃のバリバリに尖ったウィーン・フィルとのチャイコフスキーシベリウス等を聴き、またミュンヘン・フィルを引き連れて来日したかと思えば突然N響や東響を振って「マゼールが日本のオケの音を変えた!」等の絶賛の嵐を見てはいつか生で聴きたいものだと思ったことが、今となってはあの時聴いておけば…という後悔の念に変わってしまった。ブリュッヘンは何と言っても(当ブログでも以前少し触れたが)2013年4月の手兵との来日が本当に最後になってしまったが、あのブリュッヘンベートーヴェンに触れることが出来たのは恐らく生涯の思い出となるだろう。テンポは這いずるように遅く、音楽は進むにつれて末端肥大的にグロテスクな膨張を見せ、その膨張に耐えかねるかのごとくオーケストラは時にブリュッヘンの要求に悲鳴を上げてミスを連発する。その解釈は明らかに古楽器の枠を逸脱していて、例えるならばそのエグ味はフルトヴェングラーアーベントロートなどの戦前〜戦後初期の大巨匠が持っていた作品への歪んだ愛情の成せる業と言えるかもしれない。その奇形的なフォルムでありながら強靭な一つの意志に貫かれたベートーヴェン交響曲第3番を聴きながら、これは先は長くないだろうと感じたものだが、その約1年半後予感が的中してしまうとは思っても見なかったことだ。

考えてみれば、1930年代に生まれた人々が亡くなるのは至極当たり前というか、特に大きい病気をやっていようとなかろうと大往生の部類に入ると思うのだが、それでもやはり実演に接したりライブの評判をよく見ていた演奏家が亡くなるのはショックが大きい。この独特の感情は、恐らくクラシック音楽界の、それも指揮者という職業の持つ特異性に起因するものな気がしていて、というのはクラシック音楽を聴くという行為それ自体が既に懐古的なものだからだ。何十年、何百年と前に作り出された音楽をこれまた何十年と前の演奏で聴くという甚だしく倒錯的な行為が最早当たり前と化しているこの世界において、演奏者の死は(ことに若いリスナーにとっては)歴史的な事実となってしまう。早い話が、自分達のような10代〜20代の世代にとってはモーツァルトベートーヴェンの死はカラヤンバーンスタインの死と受け取られ方においてそう変わらないのである。勿論、もう少し上の世代になると「カラヤン」等の固有名詞が「フルトヴェングラー」とか「トスカニーニ」になるだけで本質的に大きな隔たりはないだろう。そしてクラシック音楽家の死がリスナーにとってそういったものであることを踏まえた上で、ブリュッヘンマゼール、ましてやアバド等の世界的な指揮者の死をリアルタイムで知ることは即ち歴史に立ち会ってしまうことなのである。音盤の遥か向こうにではあっても確かに同じ時代の空気を吸っていた人物が巨大な「歴史」となってしまうことの喪失感を背負うこの感覚は、クラシック音楽というジャンルの持つ閉鎖性と倒錯が故ではないかとここ最近のマエストロの死に対してことに感じるのである。ロックスターの死は、語弊を恐れずに言えばその死が極めて特異な事実であるが故に華々しくあり得る。フレディ・マーキュリーエイズによる病死、カート・コバーンの銃による自殺等、本来彼らが健康であるか心身ともに万全の状態であるかすれば今現在も生きていて活動していてもおかしくないのだが、彼らの死が言わば「伝説」として語られるのはその「生きていてもおかしくない」が故に死の断絶感、特異性が強調されるためではないか。クラシック音楽においてもその「断絶」を不幸にも行った者にはカルロス・クライバーやヘルベルト・ケーゲル等の特別なケースがあるが、彼らの死が死のエピソードとして伝説化されることがそう無いのはクラシック音楽という囲いの中で「死」がごく当たり前に、通り過ぎるべき歴史の事実として存在しているからである。

だが、それでも。フランス・ブリュッヘンを始めとする偉大な才能を2014年に入って失ったことに対しては、あまりにも無念だと言わざるを得ない。TwitterとかブログでR.I.Pとか追悼とか書くのは亡くなった人物に対して誠実なようで不誠実であり、また軽薄な行為だと思っているのでそういうことはあえて言わないが、今この時にブリュッヘン18世紀オーケストラと吹き込んだ瑞々しいモーツァルト交響曲を聴いてああ良い音楽をしているなと感じることは、せめてあってもいいのではないかと思う。