7/20エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団@サントリーホール

前日まで行けるかどうか定かではなかったが、幸運にも金銭に恵まれたので(時間はこじ開けて)インバル/都響マーラーを聴きに行った。このコンビほどTwitterやらブログやらで喧伝される外国人指揮者と在京オケの組み合わせもないだろうと思うのだけども、インバルと都響の組み合わせを聴いたのは実際これが初めて。都響自体は2011年2月に二期会サロメ』をゾルテス指揮で聴いたのだけども、これは都響独特の硬質ながらゴージャスなサウンドがリヒャルトのマニエリ趣味全開のグロテスクな音楽によくマッチしていた秀演だったと思う。「と思う」とわざわざ断定的な書き方を避けたのは、この時のお目当てはペーター・コンヴィチュニーの演出だったからで、そのディストピア的な世界観を客席、ひいては会場の外にまで敷衍しながらもその現実の中で我々は救済を希求しなければならないというコンヴィチュニーのアツいメッセージにあまりに打ちのめされ、演奏の方はあんまり覚えていないというのが正直なところではある。ただ、あんまり悪い演奏という印象を持っていないということは健闘していたということだろう。多分。

 

で、本筋のインバルによるマーラー交響曲第10番だが、この曲は最早自分は溺愛しているといってもいい交響曲で、自らの浅く薄っぺらいクラシック音楽の聴体験の中の結構な割合を占めている。勿論独立して演奏されることも多い1楽章も散々聴いたし、クック補筆完成版も随分とハマった。思い入れも深く、また全曲版による実演に接することが保守派が多いクラシック音楽界では難しいこの曲のライブとあれば、それは期待値が上がらない訳もなく。しかし、この閾値まで上がりに上がった期待は、どうにも肩透かしで終わってしまったと言わざるを得ない。それは勿論、演奏のみのせいではないだろう。サントリーホール最前列の左端という最悪のクソ席(当日券だったからしょうがないんだけど、でもこの演奏だったら当日券で良かったかなという気もする)、隣で爆睡するオッサン、5楽章の冒頭でプログラムをめくりまくる客席、色々な要素がこの曲に心酔している自分にとっては気に食わなかったのかも知れない。だけれども、それを差し引いてもネットで大絶賛を浴びているインバルと都響に対するイメージは聴く前と聴いた後でかなりマイナスの方向に変わってしまったというしかないだろう。

そもそも、インバルにはフランクフルト放送交響楽団との有名な録音(DENON)が存在する。この多くの問題を抱える交響曲を「マーラー交響曲」として美しくソフィスティケートしたスマートな演奏ではあったが、あまりこの盤をじっくり刷り込んで行くことはしなかった。何故ならば、そこにはいびつなもの、マーラーのオリジナルではあり得なかったようなエグ味や逆にマーラーにしか書けなかった諦念とでも言うべき「10番にしかない何か」を聴き取ることが出来なかったからだと思う。5楽章の歌い込みは確かに素晴らしいが、中間楽章のおどけ、哀しみなどを経たカタルシスが存在せずにただただオーケストラのテクニカルな面白みがクローズアップされるばかりで、交響曲の構造とドラマによる感動は薄かった。勿論響きの美しさは特筆すべきもので、ラヴェルストラヴィンスキーでエゲツないドライヴ感覚を見せたインバルならではのオーケストラを聴く愉しみに満ちた演奏ではあるものの。そして、今回の都響との演奏は方針は同様でありながらも、フランクフルト放響との演奏では希薄だったドラマトゥルギーを大胆に導入し、白昼夢的な美しさと苦しみが同居しながらもマーラー独特の「もがき」を描き出す意欲的なものだった。とりわけ、5楽章末尾で弦楽器が13度のグリッサンドで慟哭する場面ではわざとボウイングを乱して生と死に対する嘆きを生々しく表現してみせるなどの意欲的な手法も見られたし、1楽章における丁寧で重心の低い響きの作り方はまさに万感をこめたといった風で、曲の開始と早々に鳥肌が立ったのを覚えている。何より嬉しかったのは、クック版第3稿では削られたと思しき4楽章終結部の大太鼓を入れていたことで、この「唐突に訪れるカタストロフ」の感覚はやはり大太鼓2発がないと中々味わえない。では、何が足りなかったのか?まず、都響の精度はこの日著しく低かった。音程の合わない内声(致命的だと思うんだけど)、音をポロポロ外す金管、これが「世界レベルのマーラーオーケストラ」とかTwitterでホメ殺されてる東京都交響楽団ですか、とイヤミなことを言いたくなるぐらいのミスの連発。特にホルンはメタメタで、1楽章でもミスは散見されたものの2楽章冒頭では屁のような低音を出して憚らず、5楽章のドソロでも決め切れず、一番の盛り上がりである1楽章主題回想が大ソリで提示される部分ではミスこそしなかったものの音程は全く合わない。勿論この曲は交響曲の末尾で1stホルンにダブルHiFisを要求する等ホルンの演奏難度は相当高いし、中々ライブ録音でここがバッチリ決まっているものは多くない。「ミスの有無が演奏の優劣じゃないだろう」という意見はまさしく正しい。しかし、何故こうまで口を極めて都響の演奏クオリティに対して難癖を付けるのかというのは、一つにインバルの解釈がオーケストラの高い性能を基盤としているものだからだ。劣悪な環境ではあったが、低弦の強調、注意深い弦と管のブレンドなど、極めてインバルの意図していた響きは精緻なものだったということは聴き取ることが出来た。その精緻さの上に上記のようなこの交響曲の持つドラマ性の発露が存在しているのであり、度々見られたミスやデリカシーのない発音はその解釈に水を差すものでしかない。自分の最も好きなマーラー10番の演奏として準・メルクルがMDR響(旧ライプツィヒ放送交響楽団)を指揮した、2011年のライプツィヒマーラー・フェスティバルにおけるパフォーマンスがある(未ディスク化)。はっきり言ってMDR響の技術はドイツの地方オケの域を出ず、また音色も硬くときおりトゥッティは濁る。しかし、ここにおいて実現されているのはマーラーの生へのなりふり構わないとすら言えるようなもがき、ヤケクソとしか表現しようのないぐらいムチャクチャなフォルテで叩き込まれる大太鼓から漏れ出てくるフルートの「最後の言葉」とそれを支える弦楽器の切実さであって、そういった一種アマチュア的な演奏の熱量と表現への意志がヴィルトゥオジティの問題を全くご破算にしてしまえるだけの強度を持っている。この強度によって、メルクルは「彼岸の交響曲」としての10番ではなく「此岸の交響曲」としての10番像を打ち立てることに完全に成功していた。しかもその此岸における生は希望や夢などではなく、どうしようもなく生臭く残酷な生ではあったが、それでもなお生きることを望まなければならないという不器用な生の希求だった。そこには様々なミスを乗り越えて響く魂の震えが確実にあった。インバルの棒の下の都響には、そういうような意志はなかったし、またインバルもそういう意図は無かったはずだ。それもそのはずで、インバルは最初からそんなことを表現しようとはしていなかった。高い技術と充実した響きによってもたらされる効果にプラスαで熟練の解釈を加えようとしていたはずであって、それに対して都響は明らかに応えることが出来なかったのである。

 

勿体無い演奏だなあ、イマイチだったなあと思いながら演奏が終了すると待ち構えていたかのようなブラヴォーが会場のそこかしこから飛びまくる。きっと、ここに居たいわゆる「都響信者・インバル信者」の人々は「今、ここ」において演奏されたマーラーの10番を聴いていたのではなく、インバルと都響が歩んで来た23年間の「物語」を聴き、またそれに浸っていたのだろう。その「物語」は時間を伴っているが故にその内部に居る人間にとっては美しいが、「物語」の外部に居る人間に対しては哀しみとも怒りともつかない、複雑な感情を喚起させずにはおれなかった。この「物語」とそれを取り巻く人々の哀しみと盲目性、何かに似てるなあと思ったら、アイドルの卒業ライブなのだと思った。エリアフ・インバルという「アイドル」が都響というグループから卒業してしまうという物語に浸る人々の姿は、奇妙にもアイドルの卒業を見送るオタク達の哀しい姿とダブって見えたのだった。朝比奈隆カール・ベームの公演を聴くことは叶わなかったけれど、おそらくこういう気持ち悪さがあったのだと思う。