6/6ラデク・バボラーク ホルンリサイタル2014@文京シビック大ホール

2~3年前までは一ヶ月に2回ぐらいのペースで演奏会には足を運んでいたのだけれど、映画とアイドルに使うお金が増えてあまりクラシック音楽の演奏会に身銭を切って行かなくなってしまった。今年はアマオケの演奏会に2回行ったきりで、外来オケともなると去年の4月頭にすみだトリフォニーで聴いたブリュッヘン/18世紀オーケストラベートーヴェンが最後という…。毎回読響に来る度行っていたカンブルランの来日も行かないと思って行かなかったのは今年が初めて。まあ、最近の在京オケはなんとなく自分の好きなプログラムをやってくれない傾向にあるというのは事実だし、自分の好きな外来オケの組み合わせは演奏者や指揮者の体調不良や惜しまれる逝去によってどんどん減ってきてはいるのだけど。コリン・デイヴィスクルト・ザンデルリンクがいなくなり、ミヒャエル・ギーレン、ニコラウス・アーノンクールといった巨匠の面々の再来日が絶望的な今、高い交通費とチケット代を払って2時間のコンサートを聴くのもバカバカしくなってしまい、家の未開封CDを消化したり1000円2本で映画を観ていたりした方が楽しいという結論に至ってしまってもしょうがない気がする。目下楽しみなのはインバル/都響マーラー10番と飯守/東フィルのパルジファルだが、この二つ以外に特にビビッと来る演奏会もないのは今の日本のクラシックシーンの問題なのか、はたまた自分のアンテナの鈍さ故か…。

 

前置きというか愚痴が長くなってしまったが、そんな中今ナマで聴くべきコンサートということで去る6月6日、文京シビックホールラデク・バボラークのホルンリサイタルに聴きに行ってきた。伴奏ピアノは菊池洋子ミュンヘン・フィルやベルリン・フィルといった錚々たるドイツのオーケストラの首席ホルンを歴任してきたホルンの名手であることは言うに及ばずだが、いやまあ本当に素晴らしかった。客層は吹奏楽部でホルンを吹いているであろう女子高生がかなり多かったが(終演後のサイン会でズラリと並ぶ制服姿や休憩で混む女子トイレはかなり奇妙な気分にさせられた)、プログラムの渋みも相俟ってバカテクで魅せるというよりかはバボラークの持つ独特の歌心と精緻な響きのコントロールでじっくりと聴かせるというスタイルの演奏会だったのでウトウト舟を漕ぐ女子高生が多かったのは残念だし勿体無い。

バボラークの持つ歌とホルンの音色を評する際、彼の出自であるチェコと絡めて「ボヘミアの」という紋切り型の枕詞がつくことが多い。確かにかなりクセのあるフレーズの捉え方をする人ではあるし、その音色は強奏時においても割れることはなく時に土臭さを香らせつつもまろやかだ。しかし、今回の演奏会を聴く限り、彼のホルン演奏を支えているのは上記のような志鳥栄八郎的パンチラインに回収される程単純なものではない。彼のアイデンティティは、どんな曲でも「ホルンを超えて」響かせてしまうところにある。例えば、現在ベルリン・フィルにおいて首席ホルンを務めているシュテファン・ドールのホルンは、Youtubeに上がっているマーラー交響曲第5番3楽章におけるソロ・パフォーマンス(https://www.youtube.com/watch?v=52Q0FVB8q3E)を聴けば分かる通り、コンサートホールを割らんばかりに強烈で重金属的なフォルテからガラス張りのごとき繊細なピアニシモまで、「ホルン」という楽器の持つ限界のメカニズムを引き出すことが持ち味だと言える。それは、スヴィヤトスラフ・リヒテルショパンを弾こうがプロコフィエフを弾こうがシューベルトを弾こうが、全て「リヒテルの『ピアノ』」によって奏でられたことを前提にして響いていたことと似ている。リヒテルのピアノもドールのホルンも、彼らの生み出す音楽は彼らの奏でる楽器の持っている能力をギリギリまで引き出すことの上に立脚していた。そしてその彼らの音楽に対する感動は、シューベルトマーラーの作品に対する感動ではなくピアノやホルンの可能性に対する感動ではなかったろうか。逆に言えば、リヒテルがヴァイオリンを弾いていたりドールがクラリネットを吹いていたりしても絶対に同じような音楽にはならないのであり、「ピアノ」や「ホルン」という楽器を手にすることによって初めてあのような陰影の濃く強烈なコントラストを持つ音楽が生まれるのだと言える。無論それは否定されるべきものではないし、むしろ再現芸術の一つの形態の極点として称揚されるべきものだろう。それでは、バボラークの「ホルンを超えて」響く音楽とはどういうことなのか。彼のホルンは、時にブツブツと呟くように、時に腹の底から思い切り押し出すように奏される。このバボラーク独特の旋律感(ブツブツと呟くようであっても、必ず「歌っている」)は、例えばメロディではチェロのように、とかリズムではパーカッションのように、という類いの響きの巧みな模倣が可能であるからホルンを超えているとかいうレベルの感覚ではない。それは、ホルンという楽器を手段として弦楽器でも打楽器でも木管楽器でも、もしかしたら金管楽器でも演奏不可能であるかもしれない普遍的な「音楽」を表現することへの意志の顕われであり、ホルンを聴かせる(というかホルンを100%聴かせること自体メチャメチャに難しいのだが)ことは彼にとって二の次なのである。ドスの効いた低音やクリアなハイノート、常軌を逸した早回しは無論この演奏会において幾度も登場したが、それらのテクニックはバボラークにとって作曲家を聴かせる為の手段に過ぎず、「ホルン奏者」としてのヴィルトゥオジティに寄りかかっていないところにバボラークがバボラークたる所以、またバボラークにしか生み出せない音楽の豊穣な輝きが存在していた。

全体の彼のホルン演奏に対して抱いた思いはこのようなものだが、プログラムの妙も光っていた。トマジに始まり、抒情的なヤナーチェクのピアノソロを経て真面目さとふてぶてしさが混在しているヒンデミットソナタで1部を閉じ(最初はトマジとヒンデミットが逆だったようだがこの変更は成功していたように思う)、リフリーク、プーランク、ロータ、グルギンと現代的な感性が見せる過去への憧憬がロマンティシズムと共に溢れ出す2部と、マイナーな選曲であるにも関わらず一つの大スペクタクル(ホルンとピアノだけなのに!)として聴き通すことができた。以下、特に印象に残った2曲の感想。

 

・レオシュ・ヤナーチェク-「草かげの小径にて」第1集より「散り行く木葉」「フリーデクの聖母マリア

上の感想でバボラークのホルンばっかり絶賛しといてアレだけども、菊池洋子のピアノが、いやはや中々どうして良かった。勿論伴奏という意味でも大活躍で、2部のリフリークの「ホルンとピアノのためのソナチネ」第1楽章では大きな放物線を描いて文京シビックホールの隅々まで音色を染み込ませていくバボラークのホルンに対して極めてストイックで縦のエッジが効いた伴奏をしていて、この好対照によりリフリークの意図していたであろう空間的な響きの構築が見事に再現されていた。菊池のピアノソロは1部と2部に一曲ずつ配置されており、2部はプーランク即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」が演奏されたがこれも洒脱さと諦念がぐるぐると明滅する美しい演奏だった。ヤナーチェクはとりわけ出色の出来で、「草かげの小径にて」から抜粋された2曲はどちらも充実の演奏だったが「フリーデクの聖母マリア」には瞠目させられた。巡礼の合唱の主題とマリア讃歌が交互に出現し、しかしそれらは融合し止揚することはなく対置されるのみで遠くへと消えてゆく…。菊池はヤナーチェクの持ち味である猟奇的なオスティナートや分裂する旋律線をことさら強調するのではなく、むしろこの楽曲が持つ宗教的で敬虔な雰囲気を彼女の丁寧なタッチでリリカルに描き出し、その柔らかさが嫌みになったり楽曲の旨味を失ったりすることは決してない。ヤナーチェクのピアノ演奏を生で聴いたのは初めてだけども(そもそも録音でもフィルクシュニーのDG盤ぐらいしか聴いてないが)、この演奏を聴いただけで菊池が凡百のつまらないピアニストではないことはすぐに分かるし、何よりも最終和音が響いた後に作品世界から抜け出るようにやっとこさ鍵盤から手を離す仕草を見れば、彼女の卓越した集中力も見て取れるだろう。

このヤナーチェクプーランクの演奏を聴いて彼女のソロ・リサイタルに足を運びたくなったのだけども、その宣伝チラシに掲載されたプログラムを見て唖然。ショパンの「ノクターン第2番」やら「アンダンテ・スピアナートと華麗なる〜」やら、地獄のような通俗名曲セルアウトプログラム。申し訳のように細川俊夫の「舞い」が入っているのが余計に泣ける。辻○伸○のようなメ○ラの曲芸に安直な感動ストーリーをくっ付けて商品化しているぐらいだったらこういう優れたピアニストの然るべき曲の生演奏やディスクに金を使うべきだと思うし、そういうことも気づかないから日本のクラシック音楽界の土壌は貧しく不毛になっていくばかりで…(愚痴)。強烈な打鍵こそないが、繊細な音色でじんわりと聴かせることのできる今時珍しいピアニストではないだろうか。

 

ニーノ・ロータ-バラード「カステル・デル・モンテ

ロータと言えばフェリーニやコッポラの映画音楽の人という印象が強烈過ぎるんだけども、最近は児玉宏/大阪交響楽団が彼の交響曲第4番「愛のカンツォーネに由来する交響曲」を取り上げたり片山杜秀がロータ演奏について評論を書いていたりと、シェルシやノーノを生み出した現代音楽大国イタリアにおいて調性音楽へ挑み続けた20世紀のクラシック作曲家として再評価の波が高まってきた感も強い。という訳であまり先入観を抱かないようにして曲と向き合ったのだけど、濃厚なロマンティシズムが抑制され切り詰められた音の行間から滲み出してくる紛いもない20世紀の名曲と言えるんじゃないだろうか。冒頭の息の長い上昇音形による旋律をバボラークは丁寧に踏みしめていくが、その「響きが響きを呼ぶ」ことによる音響空間の設計は悶絶モノの美しさ。こういう瞬間に立ち会ってしまうと、オーケストラや吹奏楽、アンサンブルにおけるホルンの響きとは一体なんだったのか、もしかしたらタイミングや力加減によって一本のホルンが重層的に織りなす響きの豊穣さこそが「本物」のホルンなのではないか…などという突飛なことさえも考えてしまう。そして突入するアレグロではスッキリとした粒立ちの良さで聴かせる、この切り替えの素早さとコントラスト。この瞬間だけで、バボラークという男は天才なのだと信じるしかなくなってしまう。エンディングの断片的な主題が浮かんでは消えるその様に、一炊の夢として冒頭の豪奢な音響世界の残像がちらちらと煌めいて、思わず涙。

 

このコンサートで一番感動したのは、上にも書いたアンリ・グルギンの「ホルンとピアノのためのソナタ」なのだけども、かなり個人的なツボを刺激されてしまいあまり客観的なことを書けないので書かないでおく。ただ、ジャジーでオシャレな音の並びがバボラーク独特の節回しと柔和な音色で表情豊かで語られるとき、私がホルンを演奏しようと心に決めたときの初期衝動のようなものがワーッと込み上げて来てしまって、甘酸っぱくも切ない気分にさせられたということだけは文章にしておきたい。

 

久々に生でとんでもない演奏を聴いたのでかなりとりとめのない感想になってしまった。こういうことに対して使うお金というのは気分が良いし、今すぐアイドルなどという趣味をやめたいのだけども…今月末は乃木坂46のアンダーライブもあり…総選挙にも感動してしまい…バランスを取ることは非常に難しい。もう少し生演奏に触れる機会を頑張って増やそう、と思えたしまあいいか(雑)。