爆音映画祭所感

何かの節目としての終わり、それはバンドの解散でもアイドルの卒業でもいいのだけれど、それはいつもどこか祝祭的な雰囲気が付きまとっているような気がする。2014年の5月31日を持って映画館としての吉祥寺バウスシアターは閉館を迎えるが、そのクロージング企画として催された第7回爆音映画祭にも、もれなくその祝祭感がスクリーンからロビーの喫煙スペースにまで蔓延していた、と思う。

…と偉そうにもったいぶって書き出してみたものの、恥ずかしながら私は今回の爆音映画祭までバウスシアターに足を運んだことがなかった訳で、そういう意味ではアイドルの卒業ライブにだけのうのうと来るような野次馬精神というかミーハー的なフィーリングと変わらないのでは…という気持ちになったものの、ミーハーだろうが何だろうがこのチャンスは一度だけだし、大喜びで観に行きました。クエンティン・タランティーノ監督「デス・プルーフ in グラインドハウス」とデヴィッド・エルフィック監督「クリスタル・ボイジャー」の二本。まあ、こういう特殊な興行形態だし、「映画を爆音で観る」という行為に関して思う所がなきにしもあらずではあるので、この爆音映画祭、という催しへの所感を少し。

 

タランティーノの「デス・プルーフ」はなんだかんだ家で観てるのを含めれば3回ぐらいは観ていて、彼のプロデュースや脚本を除いた純然たる監督作品8本の中で一番好きな一本を聞かれれば「パルプ・フィクション」です、と答えていたのだけれども、なんだかんだ「デス・プルーフ」が一番好きなのかもしれない。「グラインドハウス」のBDセットとか買っちゃったし。この映画に関してはTwitterで誰かが言っていておお、と思った表現に「零度の映画」というのがあって、つまりは映画以外の何ものでもない映画、文学的な解釈とか物語の外にあるコンテクストが爽快なまでに削ぎ落とされて「デス・プルーフ」という映画の持つパワフルなグルーヴ感のみによって2時間を過ごすことができる意味として「零度」の表現はとてもしっくり来た。もう家で好きなシーンを部分的に繰り返して観てるような作品なので改めて言及するようなところも思いつかないんだけれども、この映画で一番の見せ所のカークラッシュシーンでは非常に効果的な音の配置が為されていて結構ギョッとした。というのは、このシーンでカーステレオで流れるDave, Dee, Dozy, Beaky, Mick&Tichの「Hold Tight」の使い方なんだけれども、これって段々とシーンの緊迫感が強まっていくにつれてヴォリュームが増してる演出になっていて、イケイケな音楽とは裏腹ににじり寄ってくるサイコキラーの存在感が比例的に増幅するような仕掛けなのはこの爆音上映で初めて気づきました。カークラッシュの凄まじさは言わずもがな、ということで。あと、カーチェイスでは爆音で椅子が軽く揺れるので、ちょっとした体感アトラクションに乗ってるような気分になるのも楽しかった(バカの感想)。


Dave Dee ... - Hold tight 1966 - YouTube

 

で、エルフィックの「クリスタル・ボイジャー」。これはかなり危ういバランスの上に成り立っている映画のような気がした。はっきり言ってPink Floydの「Echoes」がかかるまでの1時間は我慢大会のような感じで、ひたすら能天気なサーフ・ロックをBGMにサーフィンしたり、釣りしたり、ヨット組み立てたり、というアメリカンで牧歌的なDIY感溢れる映像が延々と続く。撮影技師兼サーファーのジョージ・グリノーの半ドキュメンタリーのような作品なのだけども、戦火をくぐり抜けてきたとか元犯罪者とかドラマティックな背景も無くただただ「めっちゃサーフィン楽しい!!海最高!!」みたいな人がウキウキヨット組み立ててる映像観させられても結構しんどいものがある訳で。勿論画に動きがなくてもそれが強烈な美意識に貫かれてるとか、一つ一つのショットが異常に磨き込まれているとかなら退屈もしないんだろうけど、ホントにひたすら彼らのDIY生活がカメラに収められてるだけなんですよね…。

この作品のメインはグリノーの考案した防水仕様のスーパースローカメラで捉えられた波の運動。それらが牧歌的な映像の中にサブリミナル的に入ってきて「おっ」と思うんだけど、観客が満足行く前にその映像は切られて次のシークエンスに行っちゃうから観客のイライラは募るばかり。そしてそのイライラが頂点に達したとき、「Echoes」が始まると。これはもうズルい。それまでに感じていたもの全てがどうでもよくなるほどに美しくて、力強く、そして胸を締め付けるほどに哀しい映像と音楽に包まれる23分。しかもそれがちょっと常軌を逸するレベルの音量で鳴るんだから、気持ちよくない訳がなくて。そこで、バウスシアターに向かう途中、菊地成孔大谷能生の「アフロ・ディズニー」を読んでいて、それに関連付けられてかられずか、映像と音楽の関係に対して思いを馳せてしまった。元々、映像と音楽は切り離されていて、上記二名の文章を引くならば、人間の成長では「聴覚、次いで視覚が分断されて獲得され」、しかしトーキー映画ーつまりメディアとしての音声と映像の統合ーの発達を鑑みると視覚が先で聴覚が後という歴史的事実があり、つまり人間の成長過程とはそのまま逆に視覚聴覚がメディアとして獲得されていった。要は何が言いたいのかというと、視覚に対する聴覚(そのまた逆)は得てして恣意的に選択されてしまうということで、「アフロ・ディズニー」の実験ではオッパイに万歩計を付けた女の子がトランポリンで飛び跳ねてる画にシュトックハウゼンやフェルドマンを付け合わせたところでそれはもう何となく「合っている」感じになっちゃう、ということが示されている。それはある視点から見ればもう間違い無く齟齬を来しているのだけども、オッパイトランポリン+シュトックハウゼンの組み合わせが「シュールレアリスムを表現しています」というならばそれはもう映像と音楽のミスマッチが逆説的に(ある文脈においては)マッチングを意味してしまうというキリのない議論に収まらざるを得ない。しかし、このスーパースローの波+「Echoes」は、そのような「合う/合わない」を超越して、「あたかもその時そういう音楽が音楽としてではなく、行為に対する音響として」鳴り響いていたかのような、ある意味絶対的とも言えるような響き方をしていた。それはつまり、波が海から隆起するときにはデヴィッド・ギルモアのエロティックなギターヴォーカルが、波が海へと叩き付けられるときには暴力的なニック・メイスンのドラムが、まさにその時その場に響いていたかのような皮膚感覚で鳴っているということだ。だからこそ、この「Echoes」は、それまでのシーンの積み重ねを全てご破算にしてこの23分こそが映画「クリスタル・ボイジャー」なのだと言わしめてしまえるのだと思う。そして、そのカタルシスの形は映画としてはあまりに歪で、奇形的な感覚ではないだろうか…。


Pink Floyd - Echoes | Crystal Voyager version - YouTube

 

爆音で映画を観る、ということはいつも以上に映像と音響が分断されて、もしくはいつも以上にブレンドされた状態で作品に接するということで、それはめちゃくちゃに豊饒な体験だと言わざるを得ないし、そういう体験が出来る映画館がなくなってしまうのは本当に寂しい。「デス・プルーフ」終了後、興奮で息の荒い私の横をガリガリ君を食べながら歩いている地元のガキ大将っぽい三人が通り過ぎていきながら、「バウスシアターなくなっちゃうんだってね」「えー」みたいな会話をしているのを聞いて、ああ、生活の周縁に映画(的なもの)が存在するということはどんなに豊かなことだったのか、この子達も大人になると分かるんだろうなあ…などと思って切なくなった。出来ることならば、自分の青春の1ページに居て欲しい映画館だったと思う。