休日に観た映画6本

幸か不幸か、先週の金曜日に著しい下痢と腹痛に見舞われて学校を休んだのと高校入試の影響による連休、また大雪のもたらした交通のストップが相次ぎ、ゴールデンウィークも真っ青の9連休を過ごしてしまったのだが、本を読んだり音楽を聴いたり、非常に有意義な連休にすることが出来た。

中でも、休みの昼間から映画を観るのは格別の味わいがあるし、休みを利用して映画館に出かけるのもやはり楽しい。特にこの連休に観た映画は感銘を受けるものも多かったので、まとめて少しきちんと書いておきたいと思う。また、6本中4本を映画館で観れたというのも大きく、もう人に会わないで映画館に行くためだけに外に出たいなどと言ってみたくもなってしまうところ(そうは行かないのですが…)。

 

・「ルー・サロメ 善悪の彼岸」(監督:リリアーナ・カヴァーニ

DVDで鑑賞。宿命の女、ルー・サロメドミニク・サンダ)を中心に哲学者ニーチェ(エルランド・ヨセフソン)と医師パウル(ロバート・パウエル)の爛熟した三角関係を描く文芸エロス。先日新文芸坐でこの監督の「愛の嵐」がかかっていて惜しくも断念してしまったのだけども、女性目線の生々しいエロスを描いているという意味ではこの作品もテーマ的には通ずるところがあると思う。

映画を何故自分が観るのかというと、視覚と音楽と演じることが三位一体となって観る者に襲いかかってくるダイナミズムを求めて観ている訳で、そのダイナミズムというものが一瞬の場合もあれば最初から最後までこれはスゴい、と思わせる作品まである(勿論最後まで全く無いという作品もある)。この映画の場合は完全に前者で、おっこのシーンはスゴい!という瞬間が断続的に訪れるものの、なかなかそのシーンが全体の流れの中で説得力を持たないままにドロドロと物語が進行してしまうのがどうにも自分の生理と合わないままに2時間を終えてしまった感じ。

例えばパウルがルーを追っかけていたらいつの間にか激アツなハッテン場に出くわしてしまうというパウルの行為の「窃視」というテーマを象徴するシーンがあるが、この場面における妖艶かつ猥雑だが品性を損なわない画面の美しさは確かに素晴らしい。しかし、恐らくカヴァーニがこの「善悪の彼岸」で試みようとした映画的運動はパウルを「窃視」の象徴として、またニーチェを「耽溺」の象徴として対比するということではなかっただろうか。ニーチェが梅毒をもらった売春宿のシーンはまさに圧巻といった趣で、画面を埋め尽くす匂い立つような女の肉、肉、肉。その肉の祭典はさながらルーベンスの絵画のようでありながら不穏な雰囲気は底光りするような艶かしさによって排除され、グリーナウェイ映画のような画面に立ちこめるどことない不快感は一切ない。このシーンに象徴されるように、ニーチェが体現しているのは性の世界への「耽溺」であった。そして皮肉なことに、表題を飾るルー・サロメという女性はこの二つの象徴を繋ぐ存在であり、今風の言い方をするならば彼女はパウルニーチェのホモ・ソーシャリティの良いエサと化している(このホモ・ソーシャリティもきちんと劇中で担保されている)。更に言えば、必ずしもルー・サロメという女でなくとも良いのだ。もしこれがルー・サロメの性的魅力と魔性を存分に描くのであれば、メインの俳優をパウルニーチェのどちらかにした上での愛憎を描くべきで、というのはルーに結婚を申し込んだカールこそ正に彼女の魔性に惹き付けられた男であり、彼は彼の中で争う相手が彼以外いなかった(だからこそ切腹という究極のエゴの表現が出来た)。だが、パウルニーチェは愛ゆえに死を選んだりすることはなかった。それもそのはずで、彼らは彼らのやりとりにおいて満足してしまっていた。ルー・サロメという女はそのやりとりのオカズでしかなかった。

で、何故全体の流れがなんちゃら〜と若干のゴタクを述べたのかというと、作り手がこの二人のホモソっぷりをわざわざ浮き立たせるような演出をしているのにも関わらず、それをないがしろにするかのような形でルー・サロメファム・ファタール感も演出しているのかという点がどうにも引っかかってしまう(というか、原題は確か単に「善悪の彼岸」だったはずで、「ルー・サロメ」は勝手に日本の配給会社がつけたに過ぎないのだが)。ファム・ファタールを演出するにはとにかくそのねじれて爆発する愛欲を一本化して描いてもらわないと、というどうにも中途半端な印象の後味が残り、ドミニク・サンダの美しささえも皮相になってしまっていた。

 

・「プラン9・フロム・アウタースペース」(監督:エドワード・D・ウッド・Jr)

新橋文化劇場にて鑑賞。エド・ウッドという監督の名は今や一人歩きしており、「史上最低の映画監督」「映画史上に残る汚点」とまで言われる有様。かくいう自分もその名前は随分前から聞いており、特に「死霊の盆踊り」は特に酷いというので動画サイトで視聴してみたりもした。その内容は本当に何も言うことがなく、ひたすらトップレスのネーちゃんがおっぱい丸出しで入れ替わり立ち代わり踊るだけでしかも全くエロくないと来たので困ったもの。おっぱいが1時間以上ひたすらぷるんぷるん画面で跳ね回るのに全くエロくないってヤバすぎないだろうか。

しかし、この「プラン9」はエド・ウッドが自身の最高傑作と信じて疑わず、しかも出来上がりはご多分に漏れずクソという評価(?)を得ている。これはもう一周回ってメチャ面白いということがあるんじゃないか。真面目さから意図せずして生み出される狂気は、時として当初の狙いから全く別のところの魅力を暴走させることがある。そんな期待を抱きながら、始まったチャチなオープニングを眺めていた。___

最初から最後まで観た感想ですが、やはりクソと呼ばれる映画はクソなのである。とにかく致命的なまでに面白くない。どうみてもアルミホイルの塊にしか見えない宇宙船は特撮大国である日本の目線からすればそこまで酷い訳でもないし、飛行機の内部が会議室みたいだったり、墓の縮尺がおかしかったり、そういう端々に見られる低予算ぶりは面白い映画を作れるかどうかとは大して関係がない。どこがダメとははっきり言えないし、物語も(超強引だけども)一応筋立ては通ってるし、起伏がない訳ではない。しかし、結果的にスクリーンに映し出される80分間の密度は恐ろしいほどに薄い。

何故なのか、と少し考えてみると、一つ挙げられるところに上述のカヴァーニで触れた「瞬間のダイナミズム」のポイントは確かに存在するのだがそれがどこなのかよく分からない、という点がある。ダイナミズム、という言葉が衒学的に過ぎるならば、「観客が身を乗り出すところ」と言い換えてもいいだろう。巡査部長がゾンビとして蘇る部分、軍人と宇宙人の罵り合い…この映画に面白くなるべき要素は(多分)たっぷり盛り込まれているのだ。しかし、監督本人がその要素の活かし方がよく分からない上にいらないものも盛り込んでくるので(冒頭の棒読みクリズウェルとか)結果として全くつまらない、ということになってしまうのだと思う。「観せ方」の重要性を逆説的に思い知らされる一本。

 

・「ゾンビ ダリオ・アルジェント監修版」(監督:ジョージ・A・ロメロ

新橋文化劇場で鑑賞。「プラン9」との二本立てだったのだが、エド・ウッドで完全に落ち切ったテンションをマックスまでブチ上げてくれた。自分はゾンビ映画はおろかホラー映画というジャンルも浅学にしてよく知らないし、この「ゾンビ」もダリオ・アルジェントが編集と音楽(ゴブリンが最初から最後まで鳴り渡る)を手がけた「監修版」と、やや長めになった「米国劇場公開版」、また2時間半ほどある「ディレクターズ・カット版」などなど、そのバージョンは非常に多岐に亘る。初めて観たのがこれなので比較などはしかねるのだが、その展開のスピード感と作品全体に漂うほのぼの感はたまらなく魅力的である。漫画家の荒木飛呂彦が「奇妙なホラー映画論」(集英社新書)で指摘しているように、いわゆるゾンビ系を始めとするホラー映画はその切羽詰まった緊張感といつどこで敵が襲ってくるか分からないというドキドキの疑似体験が醍醐味である(らしい)。しかし、この「ゾンビ」はそういった緊張感が著しく希薄である。逃げ場所であり戦いのメインフィールドとなるのはショッピングモールだが、彼らはゾンビに逃げ惑うというよりは完全にショッピングモールでの生活をほのぼのと楽しんでしまっているし、その時観客が共有する感情は「俺もそこに混ぜてくれ!」というものであり、「ヤバい!ゾンビ怖い!」という類いの感情であるとは考えづらい。そもそも、ゾンビの戦闘能力がちょっと低過ぎるんじゃないかという感じもするが。頭を一発撃ち抜かれただけで行動不能になるという絶妙な弱さも、一層作品の楽天性に寄与している。

しかし、楽天的なだけでは決して終わらない。共に戦い抜いた戦友ロジャー(スコット・H・ライニガー)がゾンビに噛まれ、ゾンビになってしまうのを撃ち殺してしまうピーター(ケン・フォリー)の哀愁には、なかなかグッと込み上げるものがある(墓の前でウイスキーを呷るフォリーの表情!)。他にもメロドラマ調の部分もあればコメディ調の部分もあったりで、こういうごった煮感と先へ先へとグイグイ物語が進んでいく推進力こそ映画だと言いたくなるし、それ以前にゾンビというアイテムの当時の新奇性に頼り切ることなく脚本と演出の面白さで観せ切ってしまったロメロの職人芸にも感服する他ない。まあ、この前に観たのがよりによってエド・ウッドだったので、必要以上に感動してしまった部分はあるかもしれないが、それでも一つのジャンルのエポックメイキング的作品には変わりないだろう。この映画は家にこもってDVDやVHSで、というよりはそれこそ新橋文化劇場のようなボロい名画座で二本立てで観て、ああ面白かった、という楽しみもある気がする。またどこかでかかることがあったら是非足を運びたい。

 

・「ホーリー・マウンテン」(監督:アレハンドロ・ホドロフスキー

DVDで鑑賞。いわゆる美術・文芸映画というものは往々にして筋立てが殆ど、もしくは全くないことが少なからずある。グリーナウェイの「プロスペローの本」、デレク・ジャーマンの「ザ・ガーデン」等々、難解で意味ありげにも見える映像だが、思い切って思考を放棄してただただその美しく金のかかった耽美的な映像に身を任せていれば、それは脚本の妙で魅せる映画とはまた別の映画の愉しみが見えてくる。そして、ホドロフスキーの撮った問題作「ホーリー・マウンテン」は確かにその系譜ー映像主体という意味でーに乗るものではあるのだが、そこで紡ぎ出される1時間53分はあまりにも異形で奇形的でさえある。

付随のコメンタリーでホドロフスキー本人が色々言っているのだが、正直どうでもいい気がする。偽キリストの大量の複製、ウンコからの金の錬成、集められし9人の修行者、言葉にするだけ陳腐である(というか映像でも陳腐)。とにかくそのキッチュとしか表現しようのない映像の連続はまさにドラッグ・ムービー、観る者の思考をじわじわと奪っていく。ただ、この映画について何か語ることがあるとすれば、そのラストだろう。

これは映画だ。真実は現実にある。我々は帰る現実がある。

元も子もないと言えばそれまでなのだが、そう言ってカメラをズームバックさせ、撮影スタッフを大写しにするホドロフスキーは、映画という手段が観させることの出来る夢の可能性について非常に早い段階から気がついていたように思える。映画を観るということは、その中において一つの人生を体験するということに他ならない。そして映画の終わりは、そのもう一つの「人生」の死を意味する。だが、ホドロフスキーは映画が終わること、死を自己言及的な手法で否定してみせたのではないか。この手法はメタフィクションの創造という行為が殆ど形骸化してしまっている今では素朴に過ぎる感はあるが、それでも例えばレオス・カラックスが2013年に発表した新作「ホーリー・モーターズ」(奇しくも「ホーリー」が被る)において示してみせた映画と人生の関係性を考えるに当たって、ホドロフスキーの提示してみせた問題意識は古びずにいるだろう。尤も、カラックスはホドロフスキーよりも美的な方法で夢を語ってはいたが。

 

・「エレニの帰郷」(監督:テオ・アンゲロプロス

公式サイト:http://www.eleni.jp/index.html

新宿バルト9で鑑賞。ここ最近の1~2年、まさにこのアンゲロプロス(遺作となってしまったが)やベロッキオ、ハネケ、ジャームッシュやカラックス等、かつて70~80年代の映画シーンにおいて名を轟かせていた巨匠や名匠クラスの監督の新作の発表がとても盛んで、そのことは大いに喜ばしいし自分もそれらをリアルタイムで観ることのできる恩恵に与っている訳だが、こういう個人史の堆積がズシリと重い監督の旧作を全く観ないまま新作を観るというのはちょっと距離感が取りづらいなあと観る度に思う。というのも、例えば昨年はマルコ・ベロッキオの新作「眠れる美女」が公開されて観に行き、いたく感銘を受けたのだが、ベロッキオの過去作品を観ていればもっと感動出来たのでは?と思わずにはいられない。カラックスの「ホーリー」を観ることが出来たのは昨年の12月だったのだが、その時には既に彼の主要な作品には全て目を通していたし、それだけに「あのカラックスがこんな映画を!」という感動も勿論あった。そしてこのアンゲロプロスも、ベロッキオやハネケの新作を観に行ったときのような、どこか落ち着かない感覚を胸に観に行った。

いつ終わるともしれないカメラの長回しがメロドラマの持つ安易な着地点を不明瞭にし、それが異様なまでの静謐さの中で進行する。アンゲロプロスもまた映画の中で映画を扱っていたが(もしかすると、「映画」とは映画の究極の主題なのかもしれない)、劇中の映画と過去が交錯していく、その境界線の不透明が生み出す独自の陶酔感はなかなか言葉にしがたいものがある。画面は一貫して曇っているか霧に覆われているか雪まみれかで、その白-灰色の世界もまたこの作品の真綿で締め付けられるかのような展開に一役買っている。特に、チャイコフスキー交響曲第6番終楽章が流れる中でスターリンへの黙祷が行われる場面は、黒と白の対比、マスとしての群衆の迫力が印象的で一瞬で映画の中に引き込まれてしまう。

とは言ってみたものの、この映画についてはまだ消化しきれていない部分が非常に多い。ブルーノ・ガンツの表情だけで観る者の胸を切なく締め付ける名演、ウィレム・デフォーの苦悩はあまりにも甘美だが、その甘さに逃げ込むことをこの映画もアンゲロプロスも許していない。彼の他の作品にしっかり向き合ってから、もう一度観直したい作品。

 

・「デリーに行こう!」(監督:シャシャーント・シャー)

公式サイト:http://a-shibuya.jp/archives/8938

気でも狂ったのかと思われるかもしれませんが、暇だし金ないし、しかし時間は潰さないといけないしで、手頃だったのがこれだったので…。本当はグザヴィエ・ドランあたりを観てオシャレな感傷に浸って帰るつもりだったのだが、やはり安さの魅力には勝てない。オーディトリウム渋谷とUPLINKで同じ高校生券に700円の差があるのはやはり何かがおかしいと思う。

というわけで全く期待せずに観たのだけども、いやはやどうして、なかなか楽しい。「ゾンビ」とかは幾ら楽しめるエンタメ作だ、と言いつつもゾンビ映画の草分けだったりロメロ監督というネームバリューのおかげで町山智浩ワナビーあたりの格好の評論のエサになってしまうのだが、インド映画はマジで分析のしようがないので、心の底からカラッポになって爆音で鳴り渡るエスニックな音楽とむせ返るような画面の熱気に圧倒されていればよろしい。それでもなお能書きを垂れるとすれば、ヴィナイ・パタク演じるマヌの「大した問題じゃない」の背景にあるのはネタばらしすると奥さんの重病なのだけど、これがもしハリウッドならもっと物語の早い段階でそれを打ち明け、2時間のうちにデリーにも着いて奥さんの病気も治って万々歳で終わるだろう。しかし、この映画ではそうではない。マヌがこのシリアスな身辺の環境を打ち明けるのは最後の最後だし、しかも奥さんは治らない。その根底にある思想とは、「自分にどうにもならないことは受け入れる」というもの。考えてみれば、ヨーロッパ・アメリカ圏の映画ではその「どうにもならないこと」に対してあがくことが陽の方向にしろ陰の方向にしろ主軸であるはずなのに、逆にそのどうにもならなさをあるがままに受け入れてどうにかなるのを待つしかないという発想は極めて東洋的で、かつ新鮮に見える(もしかするとインド映画が大体そんな感じなのかもしれないが)。そういう意味でも非常に面白い体験だったし、純粋に楽しいという意味でもクオリティの高い作品だった。思わぬ掘り出し物。

 

 

去年は下半期から精力的に映画を観始めて色々悔しい思いもしたので、年の初めから良い作品に多く出会うことが出来ているのはとても得をした気分。というわけで、やはり一人で映画を観るのは楽しいということを再確認した連休でした。