クセナキス:「ペルセポリス」を通して

・私にとっての「ペルセポリス

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この曲に初めて出会ったのはいつだったか忘れてしまったけど、この強烈なノイズ音楽をいきなりヘッドフォンで聴こうとしたのは覚えている。CDプレーヤーのヴォリュームをいつも通りギリギリまで上げ、どんな開始なのだろうかとワクワクしながらプレイボタンを押す…それはクラシック音楽を聴くときも、ロックも、アイドルソングも、音楽好きにとって等しく心躍る瞬間だ。

 

そしてヘッドフォンから押し出されて来た音響は、そんな純真無垢な音楽好きの少年の心を無慈悲にも蹂躙、陵辱、圧殺するとてつもない雑音だった。そもそもこのフラクタルからプレスされている「ペルセポリス」の音源は、元来この作品の特徴である8チャンネルの加工された磁気テープをサラウンド爆音で放射するというオリジナリティを2チャンネルに圧縮しているため、作曲者であるクセナキスの意図は殆ど聴き取れないようなものと言っていい。しかし、当時の私にとって、この圧倒的な音の暴力は、あまりにも進歩的に過ぎた。クラシック音楽といったらベートーヴェンブラームス、やや攻めたところにマーラーが位置していたという程度の聴体験しか持ち合わせていなかったし、クラシック音楽を聴き出す前によく聴いていたプログレッシヴ・ロックも比較的抒情的な、メロウなものを愛聴していた私は、こんなものが音楽と呼べるのだろうか?という疑念を抱きながら、停止ボタンを押したのだった。

 

クセナキスの「強靭さ」の出力のメカニズム

さて、そんな苦々しい思い出から幾年が経ち、今この作品を聴いてみる。すると、まず驚くのは、こういったノイズやインダストリアルにおける定石である低音の存在が著しく薄い。代わりに聴き手の耳を劈いてくるのは、人間の可聴帯域ギリギリの有刺高圧電流鉄線のような、キーンという高音である。フラクタルのアナログ的なエッジのまろやかな録音も功を奏して、スピーカーの前には異形の音塊が立ち現れる。かと思えば、ジェット機の爆音のような低音が突如として渦を巻き(スピーカーで最高ヴォリュームで再生すると本当に床が揺れる)、その登場以前に存在していたノイズを全て吹き飛ばす。基本的にはこのパターンが入れかわり立ちかわり変奏されていくだけであり、無論西洋音楽的な一貫したドラマトゥルギーなどはどこへやら。

 

そもそも、クセナキスの音楽は著しく西洋音楽成立の文脈から乖離したものである。草創期において、現代音楽の発展に貢献した指揮者であるヘルマン・シェルヘンの弁を借りれば「音楽とは全くの別世界から得られた着想」であり、その手法は数学を用いるという完全に異色なもので、デビュー作を飾る「メタスタシス」から既にその手法は確立を見ていると言っていい。その後の彼の作品においても非常に高度な数学理論を駆使することにより、音の雲というべき同年代の作曲家に類例を見ない全く独自の音響世界を構築した。

私がクセナキスに対する考え方を改めさせられたのは、2011年9月に白寿ホールで行われた、ピアニストの大井浩明氏による「クセナキス鍵盤音楽全曲演奏会」であった。彼のPOCシリーズは語弊を恐れず言うならば最高にトチ狂ったものであり、日本の現代音楽界は彼を抜きにしては語れないだろう。そこにおいて大井氏が提示したものは、クセナキスのみが聴衆に訴えかける皮膚感覚、いやむしろ「骨感覚」というべきか。クセナキスの代表的なピアノ作品である「ヘルマ」において、4/4というベーシックな拍子に乗って展開する轟々たる音の暗雲。それを目の前で体感した私は、何故クセナキスがあそこまでの緻密な数学理論を求め、それを用いたのか、その片鱗が理解できたように感じた。それはつまり、この強靭極まった音響をアウトプットする「エネルギー」としての理論なのだ。強靭な音響に対して要求されるべきは、感性やセンスなどという脆弱なものを、細部から全体に及んで組み立てていくような繊細な手法(従来の西洋音楽の文脈)ではなく、絶対的に正しく、美しく、そして強い数学的な論理で音楽を外側から大づかみに描いて行くことであるという揺るぎだにしないクセナキスの鉄の意志が、私の肌や肉を貫き、骨に硬質なマテリアル同士の共鳴を喚んだのである。強い音響には、それを出力するだけの強靭な理論が存在するべきであり、だからこそクセナキスはアウトロー的な手法で彼だけの音楽を描いてみせた。逆に言えば、その音響の出力に見合うだけの強靭さがあれば、群論対称性やら集合論やらはなんでもいいのであり、極論を言えば数学でなくて物理でも化学でもよいのである。抽象性と置換可能性、またクセナキス独自の美意識が数学を必要としたという、それだけのことである。

 

・「ペルセポリス」の伝える音楽的繋がり

ペルセポリス」を聴いていると、クラシック音楽のアウトローというよりもロックやノイズに対する古典のような趣も感じてくる。例えば、ほぼ同時期に発表されたルー・リードの「メタル・マシーン・ミュージック」。

 

Metal Machine Music

Metal Machine Music

 

ポップ・ソングが横行する当時の市場に対するアンチテーゼであったと同時に、彼自身のキャリアへの一種の不信感が生んだ一つの時代を象徴するメルクマール的なアルバムだが、この「MMM」と「ペルセポリス」に共通するのは、国こそ違えど70年代初頭に漂っていた一つの「怒り」のようなエネルギーの爆発、放射ではないだろうか。また、両者の持つ独自の危険な耽美性も、轟音のノイズの向こう側に聴き取れる。「ペルセポリス」の生んだフォロワーというよりは、一つの時代が有していた空気感や意外な共通性を切り取っている存在として「MMM」を位置づけたい。

 

また、繰り返しになってしまうが常軌を逸した轟音のみが持つ耽美的な感覚、時空の歪むような美しさには、テクノやノイズからの派生であるシューゲイザーの片鱗さえも感じてしまう。

 

MBV

MBV

 

 去年2月に発表されたマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの新譜は、確実に「Isn't Anything」のストレートな音楽性や「Loveless」のシューゲイザーというジャンルを体現したゴージャスで甘美な爆音の流れを引きつつも、アルバム後半で打ち込みなどの新しい境地にグッと踏み込んだものとなった(それが成功しているかはともかく)。このアルバムの掉尾を飾るのは、いつものケヴィン・シールズの強烈なギター・ノイズを凶暴なドラムンベースが駆け抜ける、従来のマイブラのダウナーで重厚なサウンドとは一線を画する「Wonder 2」。この曲のレビューには、彼らの新境地たるジャングル・ビートと本来マイブラの持つサウンドが乖離しているというやや否定的な意見も見られる。しかし、ここに聴かれるノイジーな疾走感と耽美性は確実に彼らのサウンドであり、特に曲中延々と流れるジェット機のようなエフェクトは身体的な快感を呼び起こす。そしてこのフィジカルな感覚は、いささか牽強付会ではあるがやはり「ペルセポリス」に通低するものがあるのではないか。このノイズの波の中に存在するトランス的なグルーヴは、確実に20、30年を経た今でもフォロワーを生み続けている。

 

 

 

という訳で、なんとなく(しかも雑)ではあるが「ペルセポリス」を通して自分にとって何故クセナキスが普遍的な音の力強さを持ちうるか、また「ペルセポリス」と自分の中で繋がりに位置づけられるものを整理してみたが、クラシック音楽という閉鎖的でスノッブな土壌において別の視角からアナーキーにアプローチしている点が彼の魅力であり、またジャンルを問わず縦横無尽に影響を与え続けている所以なのかな、と考える。実演、もっと沢山やってくれないだろうか。

 

・参考文献

「彼岸のクセナキス」野々村禎彦 http://ooipiano.exblog.jp/16873957/