2014年上半期の諸々

3年前ぐらいから、年始〜7月までは早く、それ以降の時間の体感スピードが異常に遅く感じられるのだけど、今年も例によって何もしない間に2014年の半分が終わってしまった…。学校やその他のするべきことが今年に入って今までとは比較にならない程に多くなってしまったということもあるが。という訳で、上半期の諸々。

 

映画(新作に限らず、今年に入って観たもの)

1.増村保造曽根崎心中-レンタルDVD

2.デヴィッド・エルフィック「クリスタル・ボイジャー-吉祥寺バウスシアター

3.ピーター・グリーナウェイ「ベイビー・オブ・マコン」-VHS

4.ジム・ジャームッシュコーヒー&シガレッツ-レンタルDVD

5.ミヒャエル・ハネケ「愛・アムール」-新文芸坐

新作が一本もないというあたりに自分の情けない財布とアンテナの鈍感さが如実に表れていて哀しくなる。ただまあ一本100円で観れるんだからTSUTAYAのレンタルは本当に偉いよなあと…。増村はこの他にも少しだけ観たのだけども、とりわけ「曽根崎心中」は梶芽衣子と宇崎竜童の熱暴走する悲劇的な情事があまりにもスピーディに、かつ鋭くカメラに捉えられているその鮮やかさに完全にヤラれてしまった。フィルムセンターの増村特集はこの夏のメインイベントですね。「ベイビー・オブ・マコン」ははっきり言って倫理的には最低の映画だし、その失われた倫理性は映画という虚構においてすら説得力を持たないのだけれども、グリーナウェイの「プロスペローの本」で映像美の代わりに崩壊したように思われた説話的構造が、メタ的視点とバロックの暴力性を得ることで「劇映画」の中で奇形的に甦った怪物のような作品だった。マイケル・ナイマンの仕事がBGMとしてのフレスコバルディやパーセルの果たしたそれよりも遥かに素晴らしいものだった事実に思いは募るものの。

 

アルバム(新譜に限らず、今年聴いたもの)

1.銀杏BOYZ「光のなかに立っていてね」

2.King Crimson「Islands」

3.大瀧詠一「EACH TIME」

4.山下達郎「OPUS~ALL TIME BEST 1975-2012~」

5.Mahavishnu Orchestra「The Birds of Fire」

銀杏BOYZの新譜はもうなんというか、アルバム発表直前の脱退ラッシュ劇とか前作から8年ぶりのリリースとか色んな物語が付きまとっていたけど、要は銀杏の音楽は「コレがお前にとってどうであるか」であって、その銀杏のスタンスが完全に個人的心象にハマってしまってこの半年は死ぬ程聴いた。「17歳」でグチャグチャで硬質な、しかし暖かくも感じられるノイズを峯田の絶叫が切り裂く冒頭から、物語の終末を引き延ばすかのように延々と続くシンセオルガンの和音で厳かに幕を閉じる「僕たちは世界を変えることができない」まで全ての要素が歪でありながらも優しく聴き手に染み渡ってくる。「ぽあだむ」の諦念と執着と夢と慟哭がファンキーなギターのカッティングで綯い交ぜにされる快楽は言葉にできない。大瀧詠一山下達郎のポップネスはいつ聴いても色あせず、それどころか音楽が現代を超えて未来のようなどこかに向かっているかのような、普遍性への強靭な意志を感じる。

 

アイドルのシングル(新譜)

1.AKB48ラブラドール・レトリバー

2.HKT48「君はどうして?」

3.lyrical school「brand new days」

4.GALETTe「じゃじゃ馬と呼ばないで」

5.Dorothy Little Happy「ストーリー」

ラブラドール・レトリバー」「君はどうして?」は単なるオールディーズやフレンチポップの大衆化や模倣に留まらず、「アイドル」という枠組みにおいて出来る最良のポップスとは何なのかについて真摯に向き合った作品だと思う。特に、「君はどうして?」は重低音の効いたドラミングや重層的なコーラスにオールディーズへの憧憬をチラつかせながらも、あくまでアイドルJ-POPというジャンルの立場からそれらを再解釈しようという試みが心地よい。ヒップホップやブラックミュージックからの影響を隠すどころか研ぎ澄まされた抜群のセンスでアイデンティティとして確立しているリリスクやGALETTeの両曲はアイドル楽曲の中でも出色のものだが、その中でもドロシーの「ストーリー」はグループの持つ清潔感としなやかな運動性が絶妙にマッチしていて、まさにこれぞアイドルポップスを聴くことの悦びなのだと喝破したくなる。

 

クラシック音楽(新譜に限らない)

1.ギドン・クレーメルVn:J.S.バッハ-無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全集(1980年、DECCA-原盤PHILIPS

2.ブルーノ・マデルナcond.BBC交響楽団:マーラー-交響曲第9番ニ長調(1971年Live、BBC Legends)

3.A.シュタイアーcemb.、J.V.インマゼールcond.、etc:C.P.E.バッハ-C.P.E.バッハ・エディション(1966~2002年、Deutsche Harmonia Mundi

4.ミヒャエル・ギーレンcond.南西ドイツ放送交響楽団:マーラー-交響曲大地の歌(1992・2002年、Hänssler)

5.ヴォルフガング・サヴァリッシュcond.バイロイト祝祭管弦楽団:ワーグナー-歌劇「タンホイザー(1962年Live、DECCA)

バッハ一族の脈々と受け継がれる音楽の血というか、バックボーンに厳然と存在している大河の流れのような歴史を思うとそれだけで胸が熱くなるが、クレーメルの弓の軋みや猛烈なパッセージの追い込みによる造形の崩れをモノともしないバッハへの裸の挑戦は上記のような歴史の重みを背負い込みながらもその姿勢自体がアナーキーなものとしてリスナーの魂を揺さぶる。特に、ソナタ3番フーガにおけるどう聴いてもイモっぽくてダサい主題が七転八倒し、苦悶しながらも8分間をかけやがて壮大なフーガとして、轟々たる一本の大きな流れとなる様は圧巻。C.P.Eは流石にJ.Sと比べるとギャラント様式の優雅な香りがするものの、シュタイアーやヘンゲルブロックといった現代の古楽界では抜群の運動性と感覚を持つ演奏家によってシェイプ・アップされたC.P.E.バッハをまとめて聴けるのは僥倖と言う他ない。マデルナのマーラーは新宿ユニオンで発掘。中低弦の扱いがこの時代の現代音楽畑の指揮者(ロスバウトやシェルヘンなど)特有のエロティックさと骨太さがあるが、4楽章は20分前後の爆速テンポで咽び泣き、頻出するゲネラルパウゼは戦前のような気分にさせられる。この音響的アプローチはやがてセルやブーレーズマーラーへと繋がっていくのだなあと考えるとなかなか感慨深いものもあり。

 

いずれここで触れてなかった他の映画やアルバムにも触れたいですね。下半期はもう少しジャズとかにも挑戦したいところ。アイドルだけが新譜なところに自意識こじらせといて結局ただのヲタクかよという気分にもなるのだが…。

6/6ラデク・バボラーク ホルンリサイタル2014@文京シビック大ホール

2~3年前までは一ヶ月に2回ぐらいのペースで演奏会には足を運んでいたのだけれど、映画とアイドルに使うお金が増えてあまりクラシック音楽の演奏会に身銭を切って行かなくなってしまった。今年はアマオケの演奏会に2回行ったきりで、外来オケともなると去年の4月頭にすみだトリフォニーで聴いたブリュッヘン/18世紀オーケストラベートーヴェンが最後という…。毎回読響に来る度行っていたカンブルランの来日も行かないと思って行かなかったのは今年が初めて。まあ、最近の在京オケはなんとなく自分の好きなプログラムをやってくれない傾向にあるというのは事実だし、自分の好きな外来オケの組み合わせは演奏者や指揮者の体調不良や惜しまれる逝去によってどんどん減ってきてはいるのだけど。コリン・デイヴィスクルト・ザンデルリンクがいなくなり、ミヒャエル・ギーレン、ニコラウス・アーノンクールといった巨匠の面々の再来日が絶望的な今、高い交通費とチケット代を払って2時間のコンサートを聴くのもバカバカしくなってしまい、家の未開封CDを消化したり1000円2本で映画を観ていたりした方が楽しいという結論に至ってしまってもしょうがない気がする。目下楽しみなのはインバル/都響マーラー10番と飯守/東フィルのパルジファルだが、この二つ以外に特にビビッと来る演奏会もないのは今の日本のクラシックシーンの問題なのか、はたまた自分のアンテナの鈍さ故か…。

 

前置きというか愚痴が長くなってしまったが、そんな中今ナマで聴くべきコンサートということで去る6月6日、文京シビックホールラデク・バボラークのホルンリサイタルに聴きに行ってきた。伴奏ピアノは菊池洋子ミュンヘン・フィルやベルリン・フィルといった錚々たるドイツのオーケストラの首席ホルンを歴任してきたホルンの名手であることは言うに及ばずだが、いやまあ本当に素晴らしかった。客層は吹奏楽部でホルンを吹いているであろう女子高生がかなり多かったが(終演後のサイン会でズラリと並ぶ制服姿や休憩で混む女子トイレはかなり奇妙な気分にさせられた)、プログラムの渋みも相俟ってバカテクで魅せるというよりかはバボラークの持つ独特の歌心と精緻な響きのコントロールでじっくりと聴かせるというスタイルの演奏会だったのでウトウト舟を漕ぐ女子高生が多かったのは残念だし勿体無い。

バボラークの持つ歌とホルンの音色を評する際、彼の出自であるチェコと絡めて「ボヘミアの」という紋切り型の枕詞がつくことが多い。確かにかなりクセのあるフレーズの捉え方をする人ではあるし、その音色は強奏時においても割れることはなく時に土臭さを香らせつつもまろやかだ。しかし、今回の演奏会を聴く限り、彼のホルン演奏を支えているのは上記のような志鳥栄八郎的パンチラインに回収される程単純なものではない。彼のアイデンティティは、どんな曲でも「ホルンを超えて」響かせてしまうところにある。例えば、現在ベルリン・フィルにおいて首席ホルンを務めているシュテファン・ドールのホルンは、Youtubeに上がっているマーラー交響曲第5番3楽章におけるソロ・パフォーマンス(https://www.youtube.com/watch?v=52Q0FVB8q3E)を聴けば分かる通り、コンサートホールを割らんばかりに強烈で重金属的なフォルテからガラス張りのごとき繊細なピアニシモまで、「ホルン」という楽器の持つ限界のメカニズムを引き出すことが持ち味だと言える。それは、スヴィヤトスラフ・リヒテルショパンを弾こうがプロコフィエフを弾こうがシューベルトを弾こうが、全て「リヒテルの『ピアノ』」によって奏でられたことを前提にして響いていたことと似ている。リヒテルのピアノもドールのホルンも、彼らの生み出す音楽は彼らの奏でる楽器の持っている能力をギリギリまで引き出すことの上に立脚していた。そしてその彼らの音楽に対する感動は、シューベルトマーラーの作品に対する感動ではなくピアノやホルンの可能性に対する感動ではなかったろうか。逆に言えば、リヒテルがヴァイオリンを弾いていたりドールがクラリネットを吹いていたりしても絶対に同じような音楽にはならないのであり、「ピアノ」や「ホルン」という楽器を手にすることによって初めてあのような陰影の濃く強烈なコントラストを持つ音楽が生まれるのだと言える。無論それは否定されるべきものではないし、むしろ再現芸術の一つの形態の極点として称揚されるべきものだろう。それでは、バボラークの「ホルンを超えて」響く音楽とはどういうことなのか。彼のホルンは、時にブツブツと呟くように、時に腹の底から思い切り押し出すように奏される。このバボラーク独特の旋律感(ブツブツと呟くようであっても、必ず「歌っている」)は、例えばメロディではチェロのように、とかリズムではパーカッションのように、という類いの響きの巧みな模倣が可能であるからホルンを超えているとかいうレベルの感覚ではない。それは、ホルンという楽器を手段として弦楽器でも打楽器でも木管楽器でも、もしかしたら金管楽器でも演奏不可能であるかもしれない普遍的な「音楽」を表現することへの意志の顕われであり、ホルンを聴かせる(というかホルンを100%聴かせること自体メチャメチャに難しいのだが)ことは彼にとって二の次なのである。ドスの効いた低音やクリアなハイノート、常軌を逸した早回しは無論この演奏会において幾度も登場したが、それらのテクニックはバボラークにとって作曲家を聴かせる為の手段に過ぎず、「ホルン奏者」としてのヴィルトゥオジティに寄りかかっていないところにバボラークがバボラークたる所以、またバボラークにしか生み出せない音楽の豊穣な輝きが存在していた。

全体の彼のホルン演奏に対して抱いた思いはこのようなものだが、プログラムの妙も光っていた。トマジに始まり、抒情的なヤナーチェクのピアノソロを経て真面目さとふてぶてしさが混在しているヒンデミットソナタで1部を閉じ(最初はトマジとヒンデミットが逆だったようだがこの変更は成功していたように思う)、リフリーク、プーランク、ロータ、グルギンと現代的な感性が見せる過去への憧憬がロマンティシズムと共に溢れ出す2部と、マイナーな選曲であるにも関わらず一つの大スペクタクル(ホルンとピアノだけなのに!)として聴き通すことができた。以下、特に印象に残った2曲の感想。

 

・レオシュ・ヤナーチェク-「草かげの小径にて」第1集より「散り行く木葉」「フリーデクの聖母マリア

上の感想でバボラークのホルンばっかり絶賛しといてアレだけども、菊池洋子のピアノが、いやはや中々どうして良かった。勿論伴奏という意味でも大活躍で、2部のリフリークの「ホルンとピアノのためのソナチネ」第1楽章では大きな放物線を描いて文京シビックホールの隅々まで音色を染み込ませていくバボラークのホルンに対して極めてストイックで縦のエッジが効いた伴奏をしていて、この好対照によりリフリークの意図していたであろう空間的な響きの構築が見事に再現されていた。菊池のピアノソロは1部と2部に一曲ずつ配置されており、2部はプーランク即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」が演奏されたがこれも洒脱さと諦念がぐるぐると明滅する美しい演奏だった。ヤナーチェクはとりわけ出色の出来で、「草かげの小径にて」から抜粋された2曲はどちらも充実の演奏だったが「フリーデクの聖母マリア」には瞠目させられた。巡礼の合唱の主題とマリア讃歌が交互に出現し、しかしそれらは融合し止揚することはなく対置されるのみで遠くへと消えてゆく…。菊池はヤナーチェクの持ち味である猟奇的なオスティナートや分裂する旋律線をことさら強調するのではなく、むしろこの楽曲が持つ宗教的で敬虔な雰囲気を彼女の丁寧なタッチでリリカルに描き出し、その柔らかさが嫌みになったり楽曲の旨味を失ったりすることは決してない。ヤナーチェクのピアノ演奏を生で聴いたのは初めてだけども(そもそも録音でもフィルクシュニーのDG盤ぐらいしか聴いてないが)、この演奏を聴いただけで菊池が凡百のつまらないピアニストではないことはすぐに分かるし、何よりも最終和音が響いた後に作品世界から抜け出るようにやっとこさ鍵盤から手を離す仕草を見れば、彼女の卓越した集中力も見て取れるだろう。

このヤナーチェクプーランクの演奏を聴いて彼女のソロ・リサイタルに足を運びたくなったのだけども、その宣伝チラシに掲載されたプログラムを見て唖然。ショパンの「ノクターン第2番」やら「アンダンテ・スピアナートと華麗なる〜」やら、地獄のような通俗名曲セルアウトプログラム。申し訳のように細川俊夫の「舞い」が入っているのが余計に泣ける。辻○伸○のようなメ○ラの曲芸に安直な感動ストーリーをくっ付けて商品化しているぐらいだったらこういう優れたピアニストの然るべき曲の生演奏やディスクに金を使うべきだと思うし、そういうことも気づかないから日本のクラシック音楽界の土壌は貧しく不毛になっていくばかりで…(愚痴)。強烈な打鍵こそないが、繊細な音色でじんわりと聴かせることのできる今時珍しいピアニストではないだろうか。

 

ニーノ・ロータ-バラード「カステル・デル・モンテ

ロータと言えばフェリーニやコッポラの映画音楽の人という印象が強烈過ぎるんだけども、最近は児玉宏/大阪交響楽団が彼の交響曲第4番「愛のカンツォーネに由来する交響曲」を取り上げたり片山杜秀がロータ演奏について評論を書いていたりと、シェルシやノーノを生み出した現代音楽大国イタリアにおいて調性音楽へ挑み続けた20世紀のクラシック作曲家として再評価の波が高まってきた感も強い。という訳であまり先入観を抱かないようにして曲と向き合ったのだけど、濃厚なロマンティシズムが抑制され切り詰められた音の行間から滲み出してくる紛いもない20世紀の名曲と言えるんじゃないだろうか。冒頭の息の長い上昇音形による旋律をバボラークは丁寧に踏みしめていくが、その「響きが響きを呼ぶ」ことによる音響空間の設計は悶絶モノの美しさ。こういう瞬間に立ち会ってしまうと、オーケストラや吹奏楽、アンサンブルにおけるホルンの響きとは一体なんだったのか、もしかしたらタイミングや力加減によって一本のホルンが重層的に織りなす響きの豊穣さこそが「本物」のホルンなのではないか…などという突飛なことさえも考えてしまう。そして突入するアレグロではスッキリとした粒立ちの良さで聴かせる、この切り替えの素早さとコントラスト。この瞬間だけで、バボラークという男は天才なのだと信じるしかなくなってしまう。エンディングの断片的な主題が浮かんでは消えるその様に、一炊の夢として冒頭の豪奢な音響世界の残像がちらちらと煌めいて、思わず涙。

 

このコンサートで一番感動したのは、上にも書いたアンリ・グルギンの「ホルンとピアノのためのソナタ」なのだけども、かなり個人的なツボを刺激されてしまいあまり客観的なことを書けないので書かないでおく。ただ、ジャジーでオシャレな音の並びがバボラーク独特の節回しと柔和な音色で表情豊かで語られるとき、私がホルンを演奏しようと心に決めたときの初期衝動のようなものがワーッと込み上げて来てしまって、甘酸っぱくも切ない気分にさせられたということだけは文章にしておきたい。

 

久々に生でとんでもない演奏を聴いたのでかなりとりとめのない感想になってしまった。こういうことに対して使うお金というのは気分が良いし、今すぐアイドルなどという趣味をやめたいのだけども…今月末は乃木坂46のアンダーライブもあり…総選挙にも感動してしまい…バランスを取ることは非常に難しい。もう少し生演奏に触れる機会を頑張って増やそう、と思えたしまあいいか(雑)。

爆音映画祭所感

何かの節目としての終わり、それはバンドの解散でもアイドルの卒業でもいいのだけれど、それはいつもどこか祝祭的な雰囲気が付きまとっているような気がする。2014年の5月31日を持って映画館としての吉祥寺バウスシアターは閉館を迎えるが、そのクロージング企画として催された第7回爆音映画祭にも、もれなくその祝祭感がスクリーンからロビーの喫煙スペースにまで蔓延していた、と思う。

…と偉そうにもったいぶって書き出してみたものの、恥ずかしながら私は今回の爆音映画祭までバウスシアターに足を運んだことがなかった訳で、そういう意味ではアイドルの卒業ライブにだけのうのうと来るような野次馬精神というかミーハー的なフィーリングと変わらないのでは…という気持ちになったものの、ミーハーだろうが何だろうがこのチャンスは一度だけだし、大喜びで観に行きました。クエンティン・タランティーノ監督「デス・プルーフ in グラインドハウス」とデヴィッド・エルフィック監督「クリスタル・ボイジャー」の二本。まあ、こういう特殊な興行形態だし、「映画を爆音で観る」という行為に関して思う所がなきにしもあらずではあるので、この爆音映画祭、という催しへの所感を少し。

 

タランティーノの「デス・プルーフ」はなんだかんだ家で観てるのを含めれば3回ぐらいは観ていて、彼のプロデュースや脚本を除いた純然たる監督作品8本の中で一番好きな一本を聞かれれば「パルプ・フィクション」です、と答えていたのだけれども、なんだかんだ「デス・プルーフ」が一番好きなのかもしれない。「グラインドハウス」のBDセットとか買っちゃったし。この映画に関してはTwitterで誰かが言っていておお、と思った表現に「零度の映画」というのがあって、つまりは映画以外の何ものでもない映画、文学的な解釈とか物語の外にあるコンテクストが爽快なまでに削ぎ落とされて「デス・プルーフ」という映画の持つパワフルなグルーヴ感のみによって2時間を過ごすことができる意味として「零度」の表現はとてもしっくり来た。もう家で好きなシーンを部分的に繰り返して観てるような作品なので改めて言及するようなところも思いつかないんだけれども、この映画で一番の見せ所のカークラッシュシーンでは非常に効果的な音の配置が為されていて結構ギョッとした。というのは、このシーンでカーステレオで流れるDave, Dee, Dozy, Beaky, Mick&Tichの「Hold Tight」の使い方なんだけれども、これって段々とシーンの緊迫感が強まっていくにつれてヴォリュームが増してる演出になっていて、イケイケな音楽とは裏腹ににじり寄ってくるサイコキラーの存在感が比例的に増幅するような仕掛けなのはこの爆音上映で初めて気づきました。カークラッシュの凄まじさは言わずもがな、ということで。あと、カーチェイスでは爆音で椅子が軽く揺れるので、ちょっとした体感アトラクションに乗ってるような気分になるのも楽しかった(バカの感想)。


Dave Dee ... - Hold tight 1966 - YouTube

 

で、エルフィックの「クリスタル・ボイジャー」。これはかなり危ういバランスの上に成り立っている映画のような気がした。はっきり言ってPink Floydの「Echoes」がかかるまでの1時間は我慢大会のような感じで、ひたすら能天気なサーフ・ロックをBGMにサーフィンしたり、釣りしたり、ヨット組み立てたり、というアメリカンで牧歌的なDIY感溢れる映像が延々と続く。撮影技師兼サーファーのジョージ・グリノーの半ドキュメンタリーのような作品なのだけども、戦火をくぐり抜けてきたとか元犯罪者とかドラマティックな背景も無くただただ「めっちゃサーフィン楽しい!!海最高!!」みたいな人がウキウキヨット組み立ててる映像観させられても結構しんどいものがある訳で。勿論画に動きがなくてもそれが強烈な美意識に貫かれてるとか、一つ一つのショットが異常に磨き込まれているとかなら退屈もしないんだろうけど、ホントにひたすら彼らのDIY生活がカメラに収められてるだけなんですよね…。

この作品のメインはグリノーの考案した防水仕様のスーパースローカメラで捉えられた波の運動。それらが牧歌的な映像の中にサブリミナル的に入ってきて「おっ」と思うんだけど、観客が満足行く前にその映像は切られて次のシークエンスに行っちゃうから観客のイライラは募るばかり。そしてそのイライラが頂点に達したとき、「Echoes」が始まると。これはもうズルい。それまでに感じていたもの全てがどうでもよくなるほどに美しくて、力強く、そして胸を締め付けるほどに哀しい映像と音楽に包まれる23分。しかもそれがちょっと常軌を逸するレベルの音量で鳴るんだから、気持ちよくない訳がなくて。そこで、バウスシアターに向かう途中、菊地成孔大谷能生の「アフロ・ディズニー」を読んでいて、それに関連付けられてかられずか、映像と音楽の関係に対して思いを馳せてしまった。元々、映像と音楽は切り離されていて、上記二名の文章を引くならば、人間の成長では「聴覚、次いで視覚が分断されて獲得され」、しかしトーキー映画ーつまりメディアとしての音声と映像の統合ーの発達を鑑みると視覚が先で聴覚が後という歴史的事実があり、つまり人間の成長過程とはそのまま逆に視覚聴覚がメディアとして獲得されていった。要は何が言いたいのかというと、視覚に対する聴覚(そのまた逆)は得てして恣意的に選択されてしまうということで、「アフロ・ディズニー」の実験ではオッパイに万歩計を付けた女の子がトランポリンで飛び跳ねてる画にシュトックハウゼンやフェルドマンを付け合わせたところでそれはもう何となく「合っている」感じになっちゃう、ということが示されている。それはある視点から見ればもう間違い無く齟齬を来しているのだけども、オッパイトランポリン+シュトックハウゼンの組み合わせが「シュールレアリスムを表現しています」というならばそれはもう映像と音楽のミスマッチが逆説的に(ある文脈においては)マッチングを意味してしまうというキリのない議論に収まらざるを得ない。しかし、このスーパースローの波+「Echoes」は、そのような「合う/合わない」を超越して、「あたかもその時そういう音楽が音楽としてではなく、行為に対する音響として」鳴り響いていたかのような、ある意味絶対的とも言えるような響き方をしていた。それはつまり、波が海から隆起するときにはデヴィッド・ギルモアのエロティックなギターヴォーカルが、波が海へと叩き付けられるときには暴力的なニック・メイスンのドラムが、まさにその時その場に響いていたかのような皮膚感覚で鳴っているということだ。だからこそ、この「Echoes」は、それまでのシーンの積み重ねを全てご破算にしてこの23分こそが映画「クリスタル・ボイジャー」なのだと言わしめてしまえるのだと思う。そして、そのカタルシスの形は映画としてはあまりに歪で、奇形的な感覚ではないだろうか…。


Pink Floyd - Echoes | Crystal Voyager version - YouTube

 

爆音で映画を観る、ということはいつも以上に映像と音響が分断されて、もしくはいつも以上にブレンドされた状態で作品に接するということで、それはめちゃくちゃに豊饒な体験だと言わざるを得ないし、そういう体験が出来る映画館がなくなってしまうのは本当に寂しい。「デス・プルーフ」終了後、興奮で息の荒い私の横をガリガリ君を食べながら歩いている地元のガキ大将っぽい三人が通り過ぎていきながら、「バウスシアターなくなっちゃうんだってね」「えー」みたいな会話をしているのを聞いて、ああ、生活の周縁に映画(的なもの)が存在するということはどんなに豊かなことだったのか、この子達も大人になると分かるんだろうなあ…などと思って切なくなった。出来ることならば、自分の青春の1ページに居て欲しい映画館だったと思う。

休日に観た映画6本

幸か不幸か、先週の金曜日に著しい下痢と腹痛に見舞われて学校を休んだのと高校入試の影響による連休、また大雪のもたらした交通のストップが相次ぎ、ゴールデンウィークも真っ青の9連休を過ごしてしまったのだが、本を読んだり音楽を聴いたり、非常に有意義な連休にすることが出来た。

中でも、休みの昼間から映画を観るのは格別の味わいがあるし、休みを利用して映画館に出かけるのもやはり楽しい。特にこの連休に観た映画は感銘を受けるものも多かったので、まとめて少しきちんと書いておきたいと思う。また、6本中4本を映画館で観れたというのも大きく、もう人に会わないで映画館に行くためだけに外に出たいなどと言ってみたくもなってしまうところ(そうは行かないのですが…)。

 

・「ルー・サロメ 善悪の彼岸」(監督:リリアーナ・カヴァーニ

DVDで鑑賞。宿命の女、ルー・サロメドミニク・サンダ)を中心に哲学者ニーチェ(エルランド・ヨセフソン)と医師パウル(ロバート・パウエル)の爛熟した三角関係を描く文芸エロス。先日新文芸坐でこの監督の「愛の嵐」がかかっていて惜しくも断念してしまったのだけども、女性目線の生々しいエロスを描いているという意味ではこの作品もテーマ的には通ずるところがあると思う。

映画を何故自分が観るのかというと、視覚と音楽と演じることが三位一体となって観る者に襲いかかってくるダイナミズムを求めて観ている訳で、そのダイナミズムというものが一瞬の場合もあれば最初から最後までこれはスゴい、と思わせる作品まである(勿論最後まで全く無いという作品もある)。この映画の場合は完全に前者で、おっこのシーンはスゴい!という瞬間が断続的に訪れるものの、なかなかそのシーンが全体の流れの中で説得力を持たないままにドロドロと物語が進行してしまうのがどうにも自分の生理と合わないままに2時間を終えてしまった感じ。

例えばパウルがルーを追っかけていたらいつの間にか激アツなハッテン場に出くわしてしまうというパウルの行為の「窃視」というテーマを象徴するシーンがあるが、この場面における妖艶かつ猥雑だが品性を損なわない画面の美しさは確かに素晴らしい。しかし、恐らくカヴァーニがこの「善悪の彼岸」で試みようとした映画的運動はパウルを「窃視」の象徴として、またニーチェを「耽溺」の象徴として対比するということではなかっただろうか。ニーチェが梅毒をもらった売春宿のシーンはまさに圧巻といった趣で、画面を埋め尽くす匂い立つような女の肉、肉、肉。その肉の祭典はさながらルーベンスの絵画のようでありながら不穏な雰囲気は底光りするような艶かしさによって排除され、グリーナウェイ映画のような画面に立ちこめるどことない不快感は一切ない。このシーンに象徴されるように、ニーチェが体現しているのは性の世界への「耽溺」であった。そして皮肉なことに、表題を飾るルー・サロメという女性はこの二つの象徴を繋ぐ存在であり、今風の言い方をするならば彼女はパウルニーチェのホモ・ソーシャリティの良いエサと化している(このホモ・ソーシャリティもきちんと劇中で担保されている)。更に言えば、必ずしもルー・サロメという女でなくとも良いのだ。もしこれがルー・サロメの性的魅力と魔性を存分に描くのであれば、メインの俳優をパウルニーチェのどちらかにした上での愛憎を描くべきで、というのはルーに結婚を申し込んだカールこそ正に彼女の魔性に惹き付けられた男であり、彼は彼の中で争う相手が彼以外いなかった(だからこそ切腹という究極のエゴの表現が出来た)。だが、パウルニーチェは愛ゆえに死を選んだりすることはなかった。それもそのはずで、彼らは彼らのやりとりにおいて満足してしまっていた。ルー・サロメという女はそのやりとりのオカズでしかなかった。

で、何故全体の流れがなんちゃら〜と若干のゴタクを述べたのかというと、作り手がこの二人のホモソっぷりをわざわざ浮き立たせるような演出をしているのにも関わらず、それをないがしろにするかのような形でルー・サロメファム・ファタール感も演出しているのかという点がどうにも引っかかってしまう(というか、原題は確か単に「善悪の彼岸」だったはずで、「ルー・サロメ」は勝手に日本の配給会社がつけたに過ぎないのだが)。ファム・ファタールを演出するにはとにかくそのねじれて爆発する愛欲を一本化して描いてもらわないと、というどうにも中途半端な印象の後味が残り、ドミニク・サンダの美しささえも皮相になってしまっていた。

 

・「プラン9・フロム・アウタースペース」(監督:エドワード・D・ウッド・Jr)

新橋文化劇場にて鑑賞。エド・ウッドという監督の名は今や一人歩きしており、「史上最低の映画監督」「映画史上に残る汚点」とまで言われる有様。かくいう自分もその名前は随分前から聞いており、特に「死霊の盆踊り」は特に酷いというので動画サイトで視聴してみたりもした。その内容は本当に何も言うことがなく、ひたすらトップレスのネーちゃんがおっぱい丸出しで入れ替わり立ち代わり踊るだけでしかも全くエロくないと来たので困ったもの。おっぱいが1時間以上ひたすらぷるんぷるん画面で跳ね回るのに全くエロくないってヤバすぎないだろうか。

しかし、この「プラン9」はエド・ウッドが自身の最高傑作と信じて疑わず、しかも出来上がりはご多分に漏れずクソという評価(?)を得ている。これはもう一周回ってメチャ面白いということがあるんじゃないか。真面目さから意図せずして生み出される狂気は、時として当初の狙いから全く別のところの魅力を暴走させることがある。そんな期待を抱きながら、始まったチャチなオープニングを眺めていた。___

最初から最後まで観た感想ですが、やはりクソと呼ばれる映画はクソなのである。とにかく致命的なまでに面白くない。どうみてもアルミホイルの塊にしか見えない宇宙船は特撮大国である日本の目線からすればそこまで酷い訳でもないし、飛行機の内部が会議室みたいだったり、墓の縮尺がおかしかったり、そういう端々に見られる低予算ぶりは面白い映画を作れるかどうかとは大して関係がない。どこがダメとははっきり言えないし、物語も(超強引だけども)一応筋立ては通ってるし、起伏がない訳ではない。しかし、結果的にスクリーンに映し出される80分間の密度は恐ろしいほどに薄い。

何故なのか、と少し考えてみると、一つ挙げられるところに上述のカヴァーニで触れた「瞬間のダイナミズム」のポイントは確かに存在するのだがそれがどこなのかよく分からない、という点がある。ダイナミズム、という言葉が衒学的に過ぎるならば、「観客が身を乗り出すところ」と言い換えてもいいだろう。巡査部長がゾンビとして蘇る部分、軍人と宇宙人の罵り合い…この映画に面白くなるべき要素は(多分)たっぷり盛り込まれているのだ。しかし、監督本人がその要素の活かし方がよく分からない上にいらないものも盛り込んでくるので(冒頭の棒読みクリズウェルとか)結果として全くつまらない、ということになってしまうのだと思う。「観せ方」の重要性を逆説的に思い知らされる一本。

 

・「ゾンビ ダリオ・アルジェント監修版」(監督:ジョージ・A・ロメロ

新橋文化劇場で鑑賞。「プラン9」との二本立てだったのだが、エド・ウッドで完全に落ち切ったテンションをマックスまでブチ上げてくれた。自分はゾンビ映画はおろかホラー映画というジャンルも浅学にしてよく知らないし、この「ゾンビ」もダリオ・アルジェントが編集と音楽(ゴブリンが最初から最後まで鳴り渡る)を手がけた「監修版」と、やや長めになった「米国劇場公開版」、また2時間半ほどある「ディレクターズ・カット版」などなど、そのバージョンは非常に多岐に亘る。初めて観たのがこれなので比較などはしかねるのだが、その展開のスピード感と作品全体に漂うほのぼの感はたまらなく魅力的である。漫画家の荒木飛呂彦が「奇妙なホラー映画論」(集英社新書)で指摘しているように、いわゆるゾンビ系を始めとするホラー映画はその切羽詰まった緊張感といつどこで敵が襲ってくるか分からないというドキドキの疑似体験が醍醐味である(らしい)。しかし、この「ゾンビ」はそういった緊張感が著しく希薄である。逃げ場所であり戦いのメインフィールドとなるのはショッピングモールだが、彼らはゾンビに逃げ惑うというよりは完全にショッピングモールでの生活をほのぼのと楽しんでしまっているし、その時観客が共有する感情は「俺もそこに混ぜてくれ!」というものであり、「ヤバい!ゾンビ怖い!」という類いの感情であるとは考えづらい。そもそも、ゾンビの戦闘能力がちょっと低過ぎるんじゃないかという感じもするが。頭を一発撃ち抜かれただけで行動不能になるという絶妙な弱さも、一層作品の楽天性に寄与している。

しかし、楽天的なだけでは決して終わらない。共に戦い抜いた戦友ロジャー(スコット・H・ライニガー)がゾンビに噛まれ、ゾンビになってしまうのを撃ち殺してしまうピーター(ケン・フォリー)の哀愁には、なかなかグッと込み上げるものがある(墓の前でウイスキーを呷るフォリーの表情!)。他にもメロドラマ調の部分もあればコメディ調の部分もあったりで、こういうごった煮感と先へ先へとグイグイ物語が進んでいく推進力こそ映画だと言いたくなるし、それ以前にゾンビというアイテムの当時の新奇性に頼り切ることなく脚本と演出の面白さで観せ切ってしまったロメロの職人芸にも感服する他ない。まあ、この前に観たのがよりによってエド・ウッドだったので、必要以上に感動してしまった部分はあるかもしれないが、それでも一つのジャンルのエポックメイキング的作品には変わりないだろう。この映画は家にこもってDVDやVHSで、というよりはそれこそ新橋文化劇場のようなボロい名画座で二本立てで観て、ああ面白かった、という楽しみもある気がする。またどこかでかかることがあったら是非足を運びたい。

 

・「ホーリー・マウンテン」(監督:アレハンドロ・ホドロフスキー

DVDで鑑賞。いわゆる美術・文芸映画というものは往々にして筋立てが殆ど、もしくは全くないことが少なからずある。グリーナウェイの「プロスペローの本」、デレク・ジャーマンの「ザ・ガーデン」等々、難解で意味ありげにも見える映像だが、思い切って思考を放棄してただただその美しく金のかかった耽美的な映像に身を任せていれば、それは脚本の妙で魅せる映画とはまた別の映画の愉しみが見えてくる。そして、ホドロフスキーの撮った問題作「ホーリー・マウンテン」は確かにその系譜ー映像主体という意味でーに乗るものではあるのだが、そこで紡ぎ出される1時間53分はあまりにも異形で奇形的でさえある。

付随のコメンタリーでホドロフスキー本人が色々言っているのだが、正直どうでもいい気がする。偽キリストの大量の複製、ウンコからの金の錬成、集められし9人の修行者、言葉にするだけ陳腐である(というか映像でも陳腐)。とにかくそのキッチュとしか表現しようのない映像の連続はまさにドラッグ・ムービー、観る者の思考をじわじわと奪っていく。ただ、この映画について何か語ることがあるとすれば、そのラストだろう。

これは映画だ。真実は現実にある。我々は帰る現実がある。

元も子もないと言えばそれまでなのだが、そう言ってカメラをズームバックさせ、撮影スタッフを大写しにするホドロフスキーは、映画という手段が観させることの出来る夢の可能性について非常に早い段階から気がついていたように思える。映画を観るということは、その中において一つの人生を体験するということに他ならない。そして映画の終わりは、そのもう一つの「人生」の死を意味する。だが、ホドロフスキーは映画が終わること、死を自己言及的な手法で否定してみせたのではないか。この手法はメタフィクションの創造という行為が殆ど形骸化してしまっている今では素朴に過ぎる感はあるが、それでも例えばレオス・カラックスが2013年に発表した新作「ホーリー・モーターズ」(奇しくも「ホーリー」が被る)において示してみせた映画と人生の関係性を考えるに当たって、ホドロフスキーの提示してみせた問題意識は古びずにいるだろう。尤も、カラックスはホドロフスキーよりも美的な方法で夢を語ってはいたが。

 

・「エレニの帰郷」(監督:テオ・アンゲロプロス

公式サイト:http://www.eleni.jp/index.html

新宿バルト9で鑑賞。ここ最近の1~2年、まさにこのアンゲロプロス(遺作となってしまったが)やベロッキオ、ハネケ、ジャームッシュやカラックス等、かつて70~80年代の映画シーンにおいて名を轟かせていた巨匠や名匠クラスの監督の新作の発表がとても盛んで、そのことは大いに喜ばしいし自分もそれらをリアルタイムで観ることのできる恩恵に与っている訳だが、こういう個人史の堆積がズシリと重い監督の旧作を全く観ないまま新作を観るというのはちょっと距離感が取りづらいなあと観る度に思う。というのも、例えば昨年はマルコ・ベロッキオの新作「眠れる美女」が公開されて観に行き、いたく感銘を受けたのだが、ベロッキオの過去作品を観ていればもっと感動出来たのでは?と思わずにはいられない。カラックスの「ホーリー」を観ることが出来たのは昨年の12月だったのだが、その時には既に彼の主要な作品には全て目を通していたし、それだけに「あのカラックスがこんな映画を!」という感動も勿論あった。そしてこのアンゲロプロスも、ベロッキオやハネケの新作を観に行ったときのような、どこか落ち着かない感覚を胸に観に行った。

いつ終わるともしれないカメラの長回しがメロドラマの持つ安易な着地点を不明瞭にし、それが異様なまでの静謐さの中で進行する。アンゲロプロスもまた映画の中で映画を扱っていたが(もしかすると、「映画」とは映画の究極の主題なのかもしれない)、劇中の映画と過去が交錯していく、その境界線の不透明が生み出す独自の陶酔感はなかなか言葉にしがたいものがある。画面は一貫して曇っているか霧に覆われているか雪まみれかで、その白-灰色の世界もまたこの作品の真綿で締め付けられるかのような展開に一役買っている。特に、チャイコフスキー交響曲第6番終楽章が流れる中でスターリンへの黙祷が行われる場面は、黒と白の対比、マスとしての群衆の迫力が印象的で一瞬で映画の中に引き込まれてしまう。

とは言ってみたものの、この映画についてはまだ消化しきれていない部分が非常に多い。ブルーノ・ガンツの表情だけで観る者の胸を切なく締め付ける名演、ウィレム・デフォーの苦悩はあまりにも甘美だが、その甘さに逃げ込むことをこの映画もアンゲロプロスも許していない。彼の他の作品にしっかり向き合ってから、もう一度観直したい作品。

 

・「デリーに行こう!」(監督:シャシャーント・シャー)

公式サイト:http://a-shibuya.jp/archives/8938

気でも狂ったのかと思われるかもしれませんが、暇だし金ないし、しかし時間は潰さないといけないしで、手頃だったのがこれだったので…。本当はグザヴィエ・ドランあたりを観てオシャレな感傷に浸って帰るつもりだったのだが、やはり安さの魅力には勝てない。オーディトリウム渋谷とUPLINKで同じ高校生券に700円の差があるのはやはり何かがおかしいと思う。

というわけで全く期待せずに観たのだけども、いやはやどうして、なかなか楽しい。「ゾンビ」とかは幾ら楽しめるエンタメ作だ、と言いつつもゾンビ映画の草分けだったりロメロ監督というネームバリューのおかげで町山智浩ワナビーあたりの格好の評論のエサになってしまうのだが、インド映画はマジで分析のしようがないので、心の底からカラッポになって爆音で鳴り渡るエスニックな音楽とむせ返るような画面の熱気に圧倒されていればよろしい。それでもなお能書きを垂れるとすれば、ヴィナイ・パタク演じるマヌの「大した問題じゃない」の背景にあるのはネタばらしすると奥さんの重病なのだけど、これがもしハリウッドならもっと物語の早い段階でそれを打ち明け、2時間のうちにデリーにも着いて奥さんの病気も治って万々歳で終わるだろう。しかし、この映画ではそうではない。マヌがこのシリアスな身辺の環境を打ち明けるのは最後の最後だし、しかも奥さんは治らない。その根底にある思想とは、「自分にどうにもならないことは受け入れる」というもの。考えてみれば、ヨーロッパ・アメリカ圏の映画ではその「どうにもならないこと」に対してあがくことが陽の方向にしろ陰の方向にしろ主軸であるはずなのに、逆にそのどうにもならなさをあるがままに受け入れてどうにかなるのを待つしかないという発想は極めて東洋的で、かつ新鮮に見える(もしかするとインド映画が大体そんな感じなのかもしれないが)。そういう意味でも非常に面白い体験だったし、純粋に楽しいという意味でもクオリティの高い作品だった。思わぬ掘り出し物。

 

 

去年は下半期から精力的に映画を観始めて色々悔しい思いもしたので、年の初めから良い作品に多く出会うことが出来ているのはとても得をした気分。というわけで、やはり一人で映画を観るのは楽しいということを再確認した連休でした。

1/11 HKT48九州7県ツアー〜可愛い子には旅をさせよ〜大分iichikoグランシアタ夜の部@TOHOシネマズ渋谷LV

HKTの九州ツアーのライブビューイングに行ってきた。

 

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HKTを知ればこそ、身の回りの事情や他のアイドルもとても面白かったこともあって、ついぞチェックを怠っていたのだけれども、大体半年前ぐらいに松岡菜摘ちゃんを見てからというものすっかりその虜になってしまった。やはりメジャー感がありつつも発展途上、という意味で自分は48Gから逃れられないことをまざまざと思い知らされた半年間だった。5月には写メも行くし。

しかし、接触だけでは物足りない!(というか緊張するのでライブの方が良い!)という私なので、せめて雰囲気だけでもということでライブビューイングに足を運んだ次第。おぼろげな記憶を元に曲ごとの備忘録でもつらつらと。

 

TOHOシネマズ渋谷の入りとしてはぎっちりみっちりでもなかったが、やっぱり人は入っていた。HKTヲタの特色であるピンチケは殆ど見かけず、恐らく最年少は私なのではないか、とさえ思う程の年齢層の高さ。若いだけでなんか勝ったような気分になるが、来ている時点でたいがい同じだし何者かに圧倒的に負けている。しかしどこにでもピンチケは湧いて出てくるもので、赤いキンブレ孔雀を振り回すバカとことあるごとにUOを炊くバカは本当に勘弁してほしかった。頼むからそういうのはYoutubeでやってくれ。あとサイリウムの光がスクリーンに映り込むと予想以上に萎える。

 

 

 

0.Overture

 

1.ザ☆ピース!(メロンジュース選抜)

今回のHKTのライブのセットリストは、彼女らの持ち曲の少なさ、つまり独自色のなさを完全に逆手に取り、HKT48というグループのステージの中に異物感なく溶かし込んでしまって、それがHKT48HKT48たる場所に位置づけるという中々48Gでも観れないようなものだったと思うが、まさか開始の曲がハロプロの、一昔前に一世を風靡したこの曲と誰が予想し得ただろうか。自分はこの曲のリアルタイムの反応を一切知らない世代なので偉そうなことは言えないが、随分衝撃的な開始だった。勿論、ハロヲタだった指原の大分凱旋公演という意味合いもかなり強いのだろうが…。

ブランコに乗って降りてくるはるっぴがかわいかったのと、曲のリズム感ガン無視でバッキバキに踊り狂うめるるんが良かった。

 

2.水夫は嵐に夢を見る(全員)

また渋い曲を序盤に…。曲は知ってはいたが、あまり好きな曲でもなかったのでよく覚えていない(汗)。でもこういうシリアスなダンスナンバーも案外HKTはとても向いている気がする。ひまわり組パジャドラ公演の「Two Years Later」でも思ったけど。

 

3.初恋バタフライチームH

サビのダンスの揃わなさが面白かった。こういう爽やか路線、前の曲が暗いとすごく華やかに聞こえてうまい演出だと思った。

 

4.ウィンクは3回(ウィンク選抜)

ここで矢吹奈子ちゃん登場。しかし他のメンバーと並ぶとマジで小さ過ぎて犯罪の香りすらする。ウィンク衣装も好きだけど、この曲をああいうフリフリ衣装で観るのもまた一興。生で観たことあるHKTはこの曲だけなんだけど(MUSIC JAPANの収録)、そのときはいなかった元気に踊る森保はやはりかわいい。端正な見た目なんだけど、実際そういう雰囲気よりは無邪気でテンションの高い森保の方が個人的には好きだ。育ちの良さというか品性も無邪気さの中に表れるし。

 

5.RUN RUN RUN(研究生)

この曲こんなに良い曲だったっけ…。研究生の中でも私は駒田京伽ちゃんがイチオシなのだけど、この曲のクライマックスであり秋元康の生み出した歌詞の中でも3本の指に入るであろう名フレーズ「青春が息をする」のときのぴーちゃんはそれはそれはもう胸を締め付けられるようで美しかった。個人的にはもっと神志那ちゃんが観たかったけど、まあ文句は言うまい。

 

6.HKT48

NMB48」の博多バージョンだが、自分もザ・ピンチケな世代とはいえそれなりに分別のつく年頃になってきたとは思っているので「チームB(S)推し」とかそれこそ「NMB48」のような自己言及ソングでドチャ沸き散らすようなアレではない。しかし、やっぱり客席の中にトロッコで入って行ってファンサービスをするというのは羨ましいなと思った(素直)。煽りまくって歌ってなかった松岡さん激のヤバでかわいかった。

 

MC1

夜公演の挨拶。正直後の展開で殆ど覚えていないので割愛。ちょりの五木ひろしのモノマネが中途半端にクオリティが高かったのは覚えてる。

 

7.それでも好きだよ(指原ソロ)

これ言うのめっちゃ恥ずかしいんですが、実はこの曲大好きなんですよね…PVとか何回も観たし、それなりに思い入れのある曲。指原は生歌で、「ちょっと疲れた」とかライブっぽいところも挟みつつ堂々のパフォーマンス。しかし指原は足がキレイというかスタイルがいい。悔しい(何)。

 

8.ペディキュアday(松岡菜、谷、田島)

目から血が出るかと思った。いやあ、なんですかこのエロい衣装は。松岡さんはかねがね黒と白のシンプルな服が似合うと思っていたんですが、白Tに黒のスカートで極めつけは厚底の靴(名称は知らない)ってマゾ心を刺激されてしょうがない。めるるんに至っては淫乱としか言いようがないし。そういう意味では、谷がいるのは丁度よかったかもしれない。しかし実際谷も結構かわいく見えてたけども。

個人的にはリップシンクじゃなくて生歌で、踊り無しでいいんで聴いてみたい。松岡さんの声はかわいさで人が死ぬんじゃないかってぐらい女の子を宿してて最高。

 

9.制服のバンビ(兒玉、矢吹、田中美)

最初ははるっぴが保護者のように見えたが、段々と3期生最強の児童ポルノ、いやロリータタッグに負けないぐらいのあどけなさが滲み出て来て、しかし独特の色香があって今日のはるっぴのベストバウトの一つに数えられる一曲だった。最初はるっぴを見たときはデコ出しが受け入れられなかったが、色々な映像を観るにつけこの子は本当に身にまとっている空気感が希有な女の子だなと感じ入る。「はるっぴにしか出せない空気」というものを、彼女の特徴(デコ出しとか滑舌)をわざわざあげつらうまでもなく佇まいで香らせてしまう、凄まじい人だと思う。

 

10.バレンタイン・キッス(朝長・多田・本村・坂口・草場・宇井・梅本泉

これも渡り廊下のシングルで唯一買ったと人前で言うの死ぬ程恥ずかしいんだよなあ…。言わずと知れたおニャン子クラブの名曲がディスコティックな趣を増した名編曲だと思うけど、この曲のキレの良さに対してみおちゃんのVoはややぬるっこく感じる部分もあり(かわいいからどうでもいいんだけど)。それに比べらぶたんの堂々たる立ち振る舞いと言ったらもうアレよ、巨匠の風格よ。持ち曲なんだから当たり前か。草場愛ちゃんの踊りがとてもよかった。

 

11.嘆きのフィギュア(森保・駒田・宮脇・井上)

初めて聴いた。けど、公演曲のシリアスさが好きな自分の好みとしては結構グッと来た。これで意外だったのが森保で、端正な見た目とは裏腹にこういう人間味の薄い曲をやると何やら森保の旨味が途端に減じられてしまう。明らかに「無理をしている」ように見えてしまうのが不思議で、逆に人間らしくていい、というような感じもない。ひたすらに「合っていない」。むしろ、ぴーちゃんは無機質な曲調と自身の聡明で、かつ湯気の立つような健康的な色気とが豊かなミスマッチを生み、独自の美しさを表出していた。

そして森保とは逆に驚かされたのがさくちゃん。彼女の一挙手一等足に驚くべき冷たさが宿り、しかもそれがものすごくエロい。目にも本当に光が宿っていないかのようだし、そろそろロリータ路線はみおちゃんあたりに譲って腹黒クール路線で勝負すればとんでもないことになりそうだ、という予感がした。「命の使い道」とかさくちゃんセンターで観たい。

 

12.FIRST LOVE(秋吉ソロ)

秋吉ちゃんはとにかく乱暴な言い回しをすれば「失敗したロリ」というとてつもなく不名誉な印象があって、後の失笑点でもボスにも言われていたが五角形の輪郭がなんというか、なんとも言えない。それに加え、3期生のきなこちゃんやみくちゃんを擁する今のHKTにおいては彼女にしか持ち得ないアイデンティティはもはや無いのではないかとすら思ってしまう。しかし、だ。

彼女の歌う「FIRST LOVE」は、あえて表現するならエロティックだった、というべきだ。しかも、そのエロティシズムは健康的ではなく、危うく淫微で、かつ痛々しささえ伴ったエロティシズム。例えるなら、今出来たばかりの生傷の滲みのような。彼女の声の震え、セーラー服を着たその佇まいは、根本的に観ている人間を不安定にさせる何かがある。これこそが秋吉ちゃんの強みなんだな、と勝手に納得した。

 

13.ピノキオ軍(指原・荒巻・栗原・坂本・筒井・外薗・山内・山下)

まあ3期生はフレッシュという修辞がつくからいいのだろうけど、マイクトラブルなのか声量の無さなのか所々パート割りが落ちたりするのはいかがなものなのか…。正直、この曲では指原というアイドルのプロ性というか、彼女の振る舞い一つ一つが生み出すグルーヴが目立ちまくり、3期生の印象は殆どない。外薗ちゃんはかわいかったかな。

 

14.軽蔑していた愛情(研究生16名)

ぴーちゃんがエロかった。あと秋吉ちゃんが上述の通り危ない感じだった。

 

15.涙売りの少女チームH

パフォーマンスの優劣なんて私には分からないが、研究生の後にHを観ると横綱相撲的な安心感がすごい。やっぱり松岡さんはエロくて品がよくてかわいい。推しについては本当に何も言う気が起こらないし、この曲の彼女の眼差しの持つ強度が〜と述べたところで、それはもう私にとっては嘘でしかない。

やはりさくちゃんの無機質なエロは武器だと思うので、今後ともバリバリ活かしていってほしい。はるっぴも妖艶で薄幸な雰囲気が◎。

 

MC2

はるっぴ「まーちゃん(森保)が嘆きのフィギュアでモナリザみたいだったー!」には笑った。

 

マジスカコント

多田、指原

めんたいこ軍(村重・若田部・伊藤・今田・宇井・梅本・深川)

チームすき焼き(中西智・植木・下野・上野・岡田・草場)

個人的にアイドルでダメというか受け付けないものに、アイドルのコントがある。アイドルがスベっているのが本当にしんどくて見ていられない(おでかけとかでも村重のギャグとか飛ばすし)。その私にとってこの茶番は苦痛でしかなかったけども、村重とちょりのチューは面白かった。というか指原とらぶたんがいなかったらどうなっていたか、考えるだに恐ろしい。

16.マジスカロックンロール

思うに、この前のコントをキチキチとこなしてここに到達すればこのクソダサいとしか言いようがないこの曲もそれなりにバチッと決まったのではないかと思うのだけど、何分村重のテンポの悪さが流れの腰を折るというか脱臼しているので、どうにも中途半端な印象が勝った。ちょりのセンターはかっこよかったし、この衣装の若田部ちゃんクッソエロい。もっと見たかった。

17.Show Fight!

18.HA!

この二曲は「若田部ちゃんエロい」しか考えてませんでした。申し訳ありません。「HA!」とか、メンバーがメンバーなら多分もっと楽しかったと思うんだけど、自分の勉強不足が…おかぱんちゃんのチームすき焼きの格好は蓮っ葉な感じが似合ってた。しかし若田部ちゃんエロかったな…

 

MC3

指原「ねえなこちゃん?なこちゃんなの?なこちゃんなんだ?」

「痔」を小6(アイドル)に向かって連呼するアイドルは初めて見た。

 

19.手をつなぎながら(1期生)

正直この後の流れのせいで覚えてない…。特別な曲であることはとても分かるのだけど、SKEのこの類いの曲はどうにもノリが嫌いで…(理不尽)。

 

20.二人乗りの自転車(研究生)

泣いた。ワシは泣いたよ、マジで。この隠れた(隠れてないか)名曲を、HKTの、しかも研究生で観れるという僥倖、今日の感動ポイントベスト3には間違いなく入る。この曲は個人に絞って観るというよりは全体の躍動感を観るのが好きなのだけど、この切ない曲を元気一杯に踊っている研究生を観ているとこちらにまでじんわりと幸福感が伝わってくる。取り立てて言うならば、後藤泉ちゃんの表情が本当によくて、更に泣きそうになった。

 

21.抱きしめちゃいけない(メロンジュース選抜)

大分iichikoグランシアタに突き刺さるオールディーズサウンドの片鱗を聴けたというだけでも最高なんだけども、DVDが擦り切れるんじゃないかというぐらい観たこの曲は同シングルカップリングに収録された「アイスのくちづけ」と並んで思い入れ深い。サインボールを投げるときのアクションがやたら大仰なはるっぴがいじらしかった。欲を言えば、サインボール投げじゃなくて踊って欲しかったかも。踊りも折角かわいいので。

 

22.君のことが好きやけん(チームH

なんか、ああ、そうですか、としか言えない曲。ピンチケUOを炊くな。

 

23.スキ!スキ!スキップ!(全員)

やはり、ここまでずっと他グループの曲をやってきて、彼女らのためのシングル曲をぶつけられると、格別の味わいとカタルシスがある。メンバーの表情も心なしか気合いが入っていて、素直に元気づけられる。

 

笑点

司会:田中菜

回答者:坂口・秋吉・宮脇・植木・若田部

座布団運び:山田麻

冒頭からボスの切れ味鋭い語り口が光る。彼女はらぶたんと並んで負の感性を魅力に転化出来る人だけれど、こういう喋りには知性の高さを感じる。「そして私にユニット曲はありません」は流石だと思った。

まあさっきも述べた通りこういうコーナーは出来ることならば早送りボタンを押して飛ばしてしまいたいのだけど、なおちゃんってこんなにアレなのか…。ボスとさくちゃんのいじりもあって割と救われてはいたものの、結構喋るとヤバい香りがする。若ちゃんはエロい。これだけは譲らない、譲れない。

 

24.AKB48Gメドレー

強き者よ北川謙二大声ダイヤモンド賛成カワイイ!〜Baby!Baby!Baby!〜ガールズルール〜ヴァージニティー君の名は希望ポニーテールとシュシュ〜チューしようぜ!〜絶滅黒髪少女

これが今日の目玉で、とにかくコンセプトもへったくれもなくありとあらゆるAKBにまつわる楽曲をHKTという鍋にごった煮にして一気に流し込むような、圧倒的な体験だった。観ながら思ったのは、予想以上に乃木坂46AKBアイドリング!!!の楽曲がそのライブの場に馴染んでいたということで、これはつまりHKTなりに楽曲について回るエピソディックな要素の排除に成功していたんじゃないだろうか。特に、「ガールズルール」の違和感のなさ、また乃木坂とは別種の美しさには驚いた。

あと、「ヴァージニティー」の松岡さんの全く独特の媚態は、彼女の表現力の底力の片鱗を思い知ったような心地がして、ドキドキした。森保のピアノに関して云々言うのは、別に彼女の演奏のクオリティがどうこうじゃなくて、ボロが出るのでやめておきたい。

 

25.未来の扉

特に言うことはない。朝長、お前めっちゃちゃんと喋れるじゃん、ぐらいの感想。

 

アンコール

アンコール!アンコール!アンコー…エイチケーティー!フォーティーエイ!エイチケーティー!フォーティー…ンコール!アンコール!アン…ティーエイ!

みたいなやつ、すっげえやめてほしい。どっちかにしてくれ。

 

EN1.ロックだよ人生は…(メロンジュース選抜)

こちらも初めて。ひまわり組2ndということで、そりゃ知らないよなあ、という。この曲はHKTのまとっている雰囲気にピッタリで、明るい曲調とは裏腹に歌詞の突き抜けたペシミズムがHKTを象徴するテーマである「若さ」に一直線に結びついているのが、イイ。定番曲になりそうな感じさえした。

 

EN2.お願いヴァレンティヌチームH+研究生)

この曲は編曲が生田真心ということでわざわざこの曲のために後でCDを買ったぐらい好きな曲なんだけども、あえて言うならば「ヴァレンティヌ」のセンターはやはりはるっぴではないのかなあ、と思わないでもなかった。めるるんが無邪気に弾ける様は確かにかわいいのだけど、安定感というか、どことなく全体に落ち着きが欠ける印象があるのは否めなかった。好きな曲なだけに、妙な引っかかりが結構純粋な鑑賞の妨げになってしまうのは勿体無かった。

 

EN3.恋するフォーチュンクッキー(全員)

この楽曲についてはもう何も言うことがない。アイドルと祝祭感の結びつきを強烈に示す「フォーチュンクッキー」の体臭は、HKTを持ってしても脱臭できないもので、そのクサさがたまらなくシビれる、ただそれだけのことだ。映画館で聴くと低音のリズム隊が腹に刺さる感じがものすごかった。

 

MC5 クラス替え(組閣)

AKB48そのものを本格的に観始めたのは3年前とかで、ちょうどチームBが5thを出したぐらいの時だったと記憶しており(柏木推しだったのでどうしてもB中心に覚えている)、つまり「組閣祭り」をリアルタイムで経験していないわけで、それでも何度か映像で組閣の場面は観ている。最初こそそのアイドルの女の子達が悲喜こもごもの感情を爆発させ、時には酸鼻極まるとまで表現出来そうな凄絶なシーンに打ちのめされていたものの、段々と「ああ、組閣ね、移籍ね、兼任ね」のような、なあなあな感覚になっていたのもまた事実ではある。

今回のHKTの「クラス替え」はそれらの比較で言えば小規模かもしれない。しかし、アイドルと物語の取り合わせが好きでない私でさえも、まさに今目の前で、現在進行形で行われる「組閣」には心を揺さぶられずにはおれなかった。KⅣとの宣告にうちひしがれる宮脇、肩を奮わせて号泣する谷、今田のチームHへの昇格を暖かく迎え入れる松岡、呼び出された瞬間膝から崩れ落ちる神志那。彼女らの姿はどうあってもお膳立てされたものとして見ることは不可能だし、それがまさにプロデューサーの秋元康による戦略であったとしても、私という人間のある部分にエモーショナルな衝撃を与えたのは事実だった。また、私は推しが選抜組な上チームも変わらなかったのだが、ずっと研究生を応援しつづけてきて、それが昇格という形で報われた方々は本当に幸せだと思う(映画館でも、濃いみなぞうヲタが号泣していたのを見て少しウルッと来てしまった)。何はともあれ、おめでたいことだ。

 

EN4.引っ越しました(全員)

アイドルの楽曲に物語という文脈をもって対峙することは本当に嫌いなのだが、しかし、しかし…やはり先程の流れの後のこの曲は「ズルい」。抱き合って泣きながら歌うメンバーの姿はともすれば白々しい。その白々しさこそが48Gというアイドルの持つ情動のダイナミズムであることも、また否定できるものではない(この言い回しもものすごく白々しいけど)。

 

EN5.メロンジュース(全員)

こういう明るく楽しいシングル曲でライブを締めくくってくれるのはHKTというグループの美点。湿っぽくならずに、首尾よくまとめてくれた。

 

 

 

こんな感じか。やっぱりメンバーの不勉強を今回は痛感。あと曲も。4月のSSAは行けるか分からないのだけども、それまでには今回以上に楽しめるようになりたい。でも、久々に楽しいアイドル体験でした、ということで。

クセナキス:「ペルセポリス」を通して

・私にとっての「ペルセポリス

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この曲に初めて出会ったのはいつだったか忘れてしまったけど、この強烈なノイズ音楽をいきなりヘッドフォンで聴こうとしたのは覚えている。CDプレーヤーのヴォリュームをいつも通りギリギリまで上げ、どんな開始なのだろうかとワクワクしながらプレイボタンを押す…それはクラシック音楽を聴くときも、ロックも、アイドルソングも、音楽好きにとって等しく心躍る瞬間だ。

 

そしてヘッドフォンから押し出されて来た音響は、そんな純真無垢な音楽好きの少年の心を無慈悲にも蹂躙、陵辱、圧殺するとてつもない雑音だった。そもそもこのフラクタルからプレスされている「ペルセポリス」の音源は、元来この作品の特徴である8チャンネルの加工された磁気テープをサラウンド爆音で放射するというオリジナリティを2チャンネルに圧縮しているため、作曲者であるクセナキスの意図は殆ど聴き取れないようなものと言っていい。しかし、当時の私にとって、この圧倒的な音の暴力は、あまりにも進歩的に過ぎた。クラシック音楽といったらベートーヴェンブラームス、やや攻めたところにマーラーが位置していたという程度の聴体験しか持ち合わせていなかったし、クラシック音楽を聴き出す前によく聴いていたプログレッシヴ・ロックも比較的抒情的な、メロウなものを愛聴していた私は、こんなものが音楽と呼べるのだろうか?という疑念を抱きながら、停止ボタンを押したのだった。

 

クセナキスの「強靭さ」の出力のメカニズム

さて、そんな苦々しい思い出から幾年が経ち、今この作品を聴いてみる。すると、まず驚くのは、こういったノイズやインダストリアルにおける定石である低音の存在が著しく薄い。代わりに聴き手の耳を劈いてくるのは、人間の可聴帯域ギリギリの有刺高圧電流鉄線のような、キーンという高音である。フラクタルのアナログ的なエッジのまろやかな録音も功を奏して、スピーカーの前には異形の音塊が立ち現れる。かと思えば、ジェット機の爆音のような低音が突如として渦を巻き(スピーカーで最高ヴォリュームで再生すると本当に床が揺れる)、その登場以前に存在していたノイズを全て吹き飛ばす。基本的にはこのパターンが入れかわり立ちかわり変奏されていくだけであり、無論西洋音楽的な一貫したドラマトゥルギーなどはどこへやら。

 

そもそも、クセナキスの音楽は著しく西洋音楽成立の文脈から乖離したものである。草創期において、現代音楽の発展に貢献した指揮者であるヘルマン・シェルヘンの弁を借りれば「音楽とは全くの別世界から得られた着想」であり、その手法は数学を用いるという完全に異色なもので、デビュー作を飾る「メタスタシス」から既にその手法は確立を見ていると言っていい。その後の彼の作品においても非常に高度な数学理論を駆使することにより、音の雲というべき同年代の作曲家に類例を見ない全く独自の音響世界を構築した。

私がクセナキスに対する考え方を改めさせられたのは、2011年9月に白寿ホールで行われた、ピアニストの大井浩明氏による「クセナキス鍵盤音楽全曲演奏会」であった。彼のPOCシリーズは語弊を恐れず言うならば最高にトチ狂ったものであり、日本の現代音楽界は彼を抜きにしては語れないだろう。そこにおいて大井氏が提示したものは、クセナキスのみが聴衆に訴えかける皮膚感覚、いやむしろ「骨感覚」というべきか。クセナキスの代表的なピアノ作品である「ヘルマ」において、4/4というベーシックな拍子に乗って展開する轟々たる音の暗雲。それを目の前で体感した私は、何故クセナキスがあそこまでの緻密な数学理論を求め、それを用いたのか、その片鱗が理解できたように感じた。それはつまり、この強靭極まった音響をアウトプットする「エネルギー」としての理論なのだ。強靭な音響に対して要求されるべきは、感性やセンスなどという脆弱なものを、細部から全体に及んで組み立てていくような繊細な手法(従来の西洋音楽の文脈)ではなく、絶対的に正しく、美しく、そして強い数学的な論理で音楽を外側から大づかみに描いて行くことであるという揺るぎだにしないクセナキスの鉄の意志が、私の肌や肉を貫き、骨に硬質なマテリアル同士の共鳴を喚んだのである。強い音響には、それを出力するだけの強靭な理論が存在するべきであり、だからこそクセナキスはアウトロー的な手法で彼だけの音楽を描いてみせた。逆に言えば、その音響の出力に見合うだけの強靭さがあれば、群論対称性やら集合論やらはなんでもいいのであり、極論を言えば数学でなくて物理でも化学でもよいのである。抽象性と置換可能性、またクセナキス独自の美意識が数学を必要としたという、それだけのことである。

 

・「ペルセポリス」の伝える音楽的繋がり

ペルセポリス」を聴いていると、クラシック音楽のアウトローというよりもロックやノイズに対する古典のような趣も感じてくる。例えば、ほぼ同時期に発表されたルー・リードの「メタル・マシーン・ミュージック」。

 

Metal Machine Music

Metal Machine Music

 

ポップ・ソングが横行する当時の市場に対するアンチテーゼであったと同時に、彼自身のキャリアへの一種の不信感が生んだ一つの時代を象徴するメルクマール的なアルバムだが、この「MMM」と「ペルセポリス」に共通するのは、国こそ違えど70年代初頭に漂っていた一つの「怒り」のようなエネルギーの爆発、放射ではないだろうか。また、両者の持つ独自の危険な耽美性も、轟音のノイズの向こう側に聴き取れる。「ペルセポリス」の生んだフォロワーというよりは、一つの時代が有していた空気感や意外な共通性を切り取っている存在として「MMM」を位置づけたい。

 

また、繰り返しになってしまうが常軌を逸した轟音のみが持つ耽美的な感覚、時空の歪むような美しさには、テクノやノイズからの派生であるシューゲイザーの片鱗さえも感じてしまう。

 

MBV

MBV

 

 去年2月に発表されたマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの新譜は、確実に「Isn't Anything」のストレートな音楽性や「Loveless」のシューゲイザーというジャンルを体現したゴージャスで甘美な爆音の流れを引きつつも、アルバム後半で打ち込みなどの新しい境地にグッと踏み込んだものとなった(それが成功しているかはともかく)。このアルバムの掉尾を飾るのは、いつものケヴィン・シールズの強烈なギター・ノイズを凶暴なドラムンベースが駆け抜ける、従来のマイブラのダウナーで重厚なサウンドとは一線を画する「Wonder 2」。この曲のレビューには、彼らの新境地たるジャングル・ビートと本来マイブラの持つサウンドが乖離しているというやや否定的な意見も見られる。しかし、ここに聴かれるノイジーな疾走感と耽美性は確実に彼らのサウンドであり、特に曲中延々と流れるジェット機のようなエフェクトは身体的な快感を呼び起こす。そしてこのフィジカルな感覚は、いささか牽強付会ではあるがやはり「ペルセポリス」に通低するものがあるのではないか。このノイズの波の中に存在するトランス的なグルーヴは、確実に20、30年を経た今でもフォロワーを生み続けている。

 

 

 

という訳で、なんとなく(しかも雑)ではあるが「ペルセポリス」を通して自分にとって何故クセナキスが普遍的な音の力強さを持ちうるか、また「ペルセポリス」と自分の中で繋がりに位置づけられるものを整理してみたが、クラシック音楽という閉鎖的でスノッブな土壌において別の視角からアナーキーにアプローチしている点が彼の魅力であり、またジャンルを問わず縦横無尽に影響を与え続けている所以なのかな、と考える。実演、もっと沢山やってくれないだろうか。

 

・参考文献

「彼岸のクセナキス」野々村禎彦 http://ooipiano.exblog.jp/16873957/

アルブレヒト指揮 ヒンデミット:歌劇「ヌシュ=ヌシ」

 

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ゲルト・アルブレヒト指揮 ベルリン放送交響楽団
パウルヒンデミット作曲 歌劇「ヌシュ=ヌシ」
ハラルド・シュタム(バス)
デヴィッド・クヌトン(テノールファルセット
ヴィルフリート・ガムリッヒ(テノール
マルテン・シューマッヒャー(シュプレッヒロール)
ヴェレナ・シュヴァイツァーソプラノ
セリナ・リンズレー(コロラトゥーラ・ソプラノ
ガブリエレ・シュレッケンバッハ(アルト) 等
1988年 WERGO

ヒンデミット作曲のシュールオペラ三部作の一角をなす作品。筋書きもオスカー・ココシュカが書いたということで話題性もふんだんの「殺人者、女達の望み」や宗教的な題材を扱っている「聖スザンナ」という割合真面目というか、それなりの後期ロマン派っぽい感じを漂わせている他の2つに比べて「無くしたキ○タマ(ヌシュ=ヌシ)を探す」というザ・退廃音楽なふざけ散らしたテーマで、彼の作品群の中でもひときわ異彩を放っていると言ってよい。登場人物の名前も「ムン・タ・ビャ」やら「トゥムトゥム」やら「オササ」やら、エキゾチシズムを勘違いしているとしか思えない突っ込みどころ満載のものだらけ。挙げ句使用される声の種類は見れば分かる通り四声に加えて、ファルセット、コロラトゥーラ、極めつけは「シュプレッヒロール」というよく分からない役職も存在しているので、聴く前から人を喰っているとしか思えない作品と言える。

という訳で、元々ドライでかつセンスのいい音楽を書くヒンデミットが悪ふざけのような台本を得れば一層キレキレのバカスカになっているのではないか、と期待するも、案外そうではなかったりする。音楽評論家鈴木淳史氏やその他のレビューを見る限りではヒンデミット一世一代のバカという風にも言われているが、蓋を開けてみれば、彼の音楽語法がこれでもかと詰め込まれた、豊饒でゴージャスな20世紀のロマン派音楽最後の煌めきである。
自分の所持しているWERGO盤はトラックが1個しかないのでどこそこを抜き出して言及することはできないのだが、全体的な印象としては意外な程にエレガントな音楽。勿論、シュプレッヒロールによるシュプレッヒシュテンメやファルセットの活用など、それなりに近代的な手法も見受けられるが、そのエレガントさは完全にマーラーの延長線上にあるもので、特にオペラの前半は時折ゾクリ、とするほどに危険な美しさをたたえた瞬間が随所に出現する。これが「ウェーバー主題による交響的変容」を書いた作曲家と同じであるとは、やや信じ難い。彼独自の書法が未熟であるというよりかは、むしろマーラーベルクなど、ドイツオーストリア圏で独自に発達した退廃の美学ヒンデミットなりに溶かし込み、音化したという言い方をするべきなのかも、という気がする。
彼独自のグルーヴ感も健在で、28分頃から開始する10分近いオーケストラは「画家マティス」3楽章の敷衍と捉えることもできるだろう。パーカッションの類いを律動の根底に据えず、低弦や金管楽器リズム隊に配置し徐々に音楽がクールに盛り上がって行く、「ヒンデミット節」をここでは味わうことができる。
アルブレヒトベルリン放響による演奏は極めて洗練されたものであり、あまり見つかっていないこの曲の紹介には相応しい、渾身の練り上げ。先述のマーラー的な部分は濃密なデカダンスを香らせ、ヒリつくようなタテの動きでは低弦を鋭く、と描き分けも秀逸。ただ、同じようなことがインバルなどにも言えるが、平均点は高いものの部分に強烈なフックが欲しいかも、というような消化不良感はない訳ではない。最後も今ひとつ盛り上げが足りず(これは曲の問題でもあるけど)、小綺麗にまとめてしまっているのはいかがなものかという感じ。知ってる「ヌシュ」の音源はこれだけなので、もっと暴発したヒンデミットを誰か録音してくれないだろうか。ネルソンスはアツく精緻にやってくれるだろうし、メルクルの負のテンションストップ高でブチ切れるのも良さそう。パーカッションの扱いに長けている人はこういう曲をやるとつまらなくなるので、ラトルとかナガノは録音の可能性はあるけど、パーカスに逃げられなければバランスの面白さに終始するだろう。大野和士オペラ・コンチェルタンテでやったヒンデミット三部作チクルスの再録がリヨンあたりで実現すれば万事解決って感じか。多分ペイ出来ないだろうけど。

今確認したら、これは歌劇ではなく、「演劇(Spiel)」ということらしい。あと、「Marionetten」とあるから、人形劇なのか?Burmanischeってなんでしょうね。なるだけト書きに忠実な映像ソフトの出現が待たれるところ。