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2/12シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団@サントリーホール

何かを言いたくなる演奏会と何も言いたくなくなる演奏会というのがあって、例えば去年の12月にKing Crimsonが来日してオーチャードホールで公演をやったのだが、まあコレを見せられてはなんというか何の言葉も紡げないなという気分にさせられた。「Sailor's Tale」でフリップの高速アルペジオがスゲー!とか「Starless」のメル・コリンズの演歌サックスがサイコー!とか「21st Century Schizoid Man」の3分に及ぶハリソンのドラムソロ激ヤベー!とか、そういう感じの頭の悪い感想は幾らでも出てくるのだがはっきり言ってそういうのはどうでもいいというか、わざわざ言葉にしなくてもいいかな…という、ある種の投げやりな感覚(勿論それは大感動しているからなのだが)を覚えてしまう、というのが後者のそれである。で、今日聴いたカンブルランのマーラー7番は確実に前者で、それは何も言葉にできる程度の良さとかそういう訳ではなく、何も言えなくなるそれとは別種の素晴らしさがあったということだ。カンブルランがバチっとハマったときの魅力は、あまりに自明で、言語化可能なので、聴いているこちら側が試されているような気さえする。音楽を言語化することの聴き手側の傲慢さと自意識の葛藤はとりあえず脇に避けるとして、何かを言いたくなる類いのものの優れた感覚というのは、ともかくそういうものなのである…。

 

・ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト-セレナーデ第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク

Twitterでも言ったのだけど、マーラーの7番が「夜の歌」だからコンセプトを夜にしよう!となったのはまあ良いとして、なんでよりによってモーツァルトのこの曲なんだ、と思ってしまったキモいオタクは果たして自分だけなんだろうか…。同じ夜だったらシェーンベルクの「浄夜」とかストラヴィンスキーの「夜鳴き鶯の歌」とかあるじゃん!?シェーンベルクストラヴィンスキーが重過ぎるとすればメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」を体よくパッパッと組曲抜粋して20分前後でやっちゃうとかさー、色々あるだろ!!カンブルランにしては安直な組み合わせだな、と思ったので、読響事務局の「マラ7でただでさえ人集まらないのにいつもの組み方されたら困ります」みたいな圧力があったのか?みたいな邪推さえしてしまう。そんなこと言ったら2013年だったかのウストヴォーリスカヤとかブリテンを前プロに据えてメインがストラヴィンスキーの「詩編」だった時とかどうなっちゃうんだよ…(ガラガラでした)。しかし、この考えは全編聴いた後で変化することにはなるのだが。

プログラムの不平不満はさておき、演奏は良かった。カンブルランと読響のモーツァルトは40番と41番を聴いたことがあるのだが、本当にモーツァルトで良い演奏を聴かせるのは途方もなく難しい訳で、一番のモーツァルト演奏における厳しさはやっぱり色彩感なのだと思う。その2曲も決して悪い演奏ではなかったのだが、弦楽器のテクスチュアがどうしても平板になってしまう部分などは耳にするたびむずがゆい思いがしたものだ。今回の「アイネク」はそういう色彩感はほぼ満足行くレベルでクリアされていて、しかもカンブルランお得意のデュナーミク操作が随所でピリリと利くので、人口に膾炙したこの曲を下品で過剰な味付けをすることなくフレッシュに聴かせていた。3楽章で弦楽器が全奏のユニゾンで漸強する部分のヴィヴィッドかつ肉感的な響きは、読響がいよいよもって「カンブルランのオーケストラ」になってきていることの証左なのだなと感慨深くもなり。

 

・グスタフ・マーラー-交響曲第7番ホ短調「夜の歌」

カンブルランのマーラーを聴くのは2010年の10番アダージョと「大地の歌」、2013年の6番と来て今年の7番なので、通算4回目になる(2010年の4番は聴き逃した)。10番、大地の歌、6番に通低している彼のマーラーの特色は、全体の異常にドラスティックな描き方(往々にして結構速めのテンポ設定)と強靭なドラマトゥルギーによる全体の統一感であると思う。ストラヴィンスキーベルリオーズではリリカルな美感と局部肥大的な細部へのこだわりが歌となって溢れ出てしまうのがスキャンダラスな魅力に繋がっていたが、マーラーに関してはかなり意識的に異なったアプローチを取っているように聴こえる。特に2013年の3月に聴いた6番は2楽章をアンダンテ、3楽章をスケルツォに設定する変則バージョンで、殺伐とした空気を前半2楽章で作ったあと、後半2楽章でその荒涼をぶち破り、一気にカタルシスに持って行くというかなりいびつな演奏だった。色彩感をあえて抑えたような響きもあまりいつものカンブルランのスタイルからは見受けられないもので、知人は彼の6番をマーク・ロスコの絵に例えていたけれども、なるほどそういう殺伐とした単色の力強さがカンブルランのマーラーにみなぎっていたのは事実だろう。

が、今回の7番は6番のようにガチガチソナタ形式かつ明確なドラマを持っていないどころか、完全に交響曲というジャンルの中で破綻している奇形児みたいな曲なので、どうアプローチするのかなと思っていたら、いつもの彼のスタイルと、それとは異なるマーラーにおける方法論をうまくミックスしたハイブリッドのような7番で、これはかなり成功していたのではないか。7番でマニエリスム的なアプローチを取ると収拾がつかなくなって演奏者は爆死するが(クレンペラーみたいな超絶技巧の演奏もあるけど)、しかしマーラーの体臭はかなりキツいというウルトラC級難易度の曲に対して、「全体から描いて行く」というカンブルランのマーラーへの取り組みと本来持ち合わせている抒情味(決してロマンティックにはならない)が非常に高いレベルでの融合を見せていた。1楽章は鬼門というか色々な主題が魑魅魍魎の如く現れては消えていく難しい楽章で、解決策としてはテンポ設定をいじくり倒してブロックごとで提示する作戦(クレンペラーやフェルツなど)、全部のテーマをガッツリ歌い込んでマーラーキッチュな歌謡性に耽溺する(バーンスタインベルティーニなど)などがあるが、カンブルランはこの楽章をバルトークの「オケコン」のように処理してしまった。名手が次々とカッコいいソロを披露するカデンツァが入れ替わり立ち代わりする洒脱な感覚は、明らかにこれまでのカンブルランのマーラーとは違っている。冒頭のテナーホルンによる主題提示はユーフォニアムによる演奏だったが(吹奏楽に噛んでる人間としてはなじみ深い外囿さんだった)、そのソロイスティックなスタイルがしっかりプレイヤー全員に意識として行き渡っており、まさに耳のごちそう(許光俊風)といったところ。チューバの次田さんとバストロの篠崎さんのソロ上手過ぎて変な息漏れた。途中2楽章のソロホルンでHiCとHiDesが一発で当たり切らずずり上げて当てたり3楽章でカンブルランの棒に反応しきれないというような部分はあったものの、4楽章ではゆっくり目のテンポで適度なエモさを振りまく。4楽章はロスバウト/SWFの演奏がマジで激烈にエモい(冒頭のソロ・ヴァイオリンから猛烈に歌う。あとギターの音がデカくて良い)ので音源の聴き比べで喜ぶクラシック音楽キチガイヲタク諸賢には是が非でも音質の良いPhoenix盤を手に入れて聴いてほしいのだが、カンブルランは節度を保ちつつも、ギターの主題がやわらかく波になって広がっていく部分の処理などは珍しいぐらいに歌っていた。歌ってもベタっと響きが粘着質にならないのは丁寧な音の作り込みの賜物でしょう。5楽章は根がマニエリストのカンブルランにとっては居てもたってもいられなかったのか、相当いじくり回した跡が見える怪演。冒頭のコラールでエゲツないスビト・ピアノをキメる部分のしてやったり感で思わず笑ってしまう。うまい人がやってもどうにもくどくなってしまったりうるさくなったりしてしまう楽章だが、カンブルランは細部の彫り上げに意を徹することで下手にまとめようとしたりせずに、パラレルな楽想の配置がクライマックスで強引にC-durで解決するムチャな構造の面白さを出来るだけナマの形でポンと見せていて、なんというかその手があったのか…という感じ。バッハだったりワーグナーだったり(フーガで展開していってラストは根こそぎ金管と低弦のギラギラした長調の響きで持っていくという辺りは5番5楽章の完全な上位互換という気もする)、でもやっぱりマーラーだったりで、最後はダメ押し的にホルンとトロンボーンでグリグリと盛り上げ、ラストは打楽器も総出で聖性と俗性のド真ん中でバカ騒ぎするこの交響曲をカンブルランは余裕綽々の響きでたっぷりと鳴らす。この感じはベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のラストでも味わったけど、明らかに5,6年前とは比較にならないレベルでこのコンビは進歩していて、来期も楽しみになるな、と思わせる演奏会なのだった。

 

全体として感じたのは、マーラーの7番は確かに交響曲としては紛うことなく完璧に破綻しているのだが、ソロイスティックに楽器をフィーチャーしたかと思えば神秘的に歌ってみたり、不気味になったり、センチメンタルになったり、でも結局最後はアッパラパーなトゥッティで〆るって、なんだかオペラ・ブッファの妙な躁鬱性を感じたりもする。で、そういう分裂的なオペラ・ブッファの感覚を最も自家薬籠中のものとしていたのは、やっぱりモーツァルトなのだ。「コジ」のブッ飛んだ倒錯性、「魔笛」の何か方向性を間違えているオカルティズムと胡散臭さといった「逸脱」が、「喜びの絶頂で幕が閉じられなければならない」(ショーペンハウアー)喜劇の方法論にほとんど無理矢理押し込められているモーツァルトのオペラ・ブッファ。すると、この奇妙な符合は、最初自分がブーブー言っていたモーツァルトマーラーの「夜の歌」という組み合わせを何やらものすごいコンセプチュアルな意味付けの誘惑へと自分を追いやるのである…(カンブルランのファンはなんでもかんでもプログラムを意味付けしたがる傾向にある)。9月のトリスタンはぶっちゃけカンブルランの要求が高度過ぎてオケも歌手もついてこれていなかったような印象があるので(トリスタン役が最初から最後まで瀕死状態だった…)、いずれ馬力のあるオケと歌手でカンブルランのオペラをかぶりつきで聴きたい。というか、かなり伸びてきているので、あと5年と言わず3年でそのくらいのレベルに達してくれ、読響。頑張れ、読響(何様)。

ブーレーズベスト10

フランス音楽界の大巨匠にして現代音楽最後の巨星、ピエール・ブーレーズが亡くなった。

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享年90歳、バーデン=バーデンでの大往生。ブリュッヘンが亡くなったときもブログを書いた気がするが、ブーレーズが亡くなったというのはシュトックハウゼン、ノーノ、クセナキス、ケージ、まあなんでもいいのだが要するに「現代音楽」や「前衛音楽」の超超超超超一流だった最後の人が亡くなったということで、それはつまりそれらの音楽の一時代が終わってしまったということで…。指揮者としても作曲家としても好き嫌いを超えたところに位置していたし、また生で聴きたかった指揮者が一人、その実演に立ち会う前に亡くなってしまった。RIPとかいうのは死んでも言いたくないが、ベスト3では心もとないので、ブーレーズ指揮の録音ベスト10を挙げて偲びとしたい。

 

1.ブーレーズによる現代音楽選集(クセナキス/グリゼイ/ファーニホウ/バートウィッスル/クルタークその他)…アンサンブル・アンテルコンタンポラン、ERATO

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師であるメシアンと決別し、クセナキスを糾弾したブーレーズの現代への眼差し。彼が総体として描き出す「現代音楽」の像は彼の作品のごとく、一見つれなく冷たいが、抗いようもないほどに艶かしい。多分ブーレーズが唯一指揮したであろうクセナキス作品の「ジャロン」は勿論だが、渋味が強いと思われるバートウィッスルやファーニホウの作品がこんなにも愛おしく響いたことはかつてないのではないか。白眉はグリゼイの「モデュラシオン」とデュフールの「アンティフィシス」。グリゼイのドラッギーでむせ返るような官能は、音響そのものが既にアナーキーでしかない。

(現在はERATOブーレーズ録音全集か、バートウィッスル/クルターク/グリゼイのみが収録された分売CDしか流通していない模様)

 

2.マーラー-交響曲第9番シカゴ交響楽団、DG、1995年

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鈴木淳史が絶賛したことで一部のクラシック音楽ヲタクにはお馴染みの録音。まあとにかく1楽章第4主題提示部の無限に広がるかのように思われる透明な響きと自然な歌心を聴いてほしい。DG以降のブーレーズに関する否定的な言説はこのマーラー1枚で全て封殺出来る。鈴木をして「こんなに邪悪なマーラーを聴いたことがない」と言わしめた機能美が一周回ってグロテスクになる2,3楽章、決して押し付けがましくならない歌心がどこまでも透き通って行く最終楽章。ブーレーズの録音、という意味を超えてマーラー9番のオールタイムベスト、エヴァーグリーン、マスターピース

 

3.ストラヴィンスキー-バレエ音楽「プルチネルラ」全曲、交響詩「うぐいすの歌」…アンサンブル・アンテルコンタンポラン、ERATO、2003年

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ハルサイや火の鳥といった音響爆裂地獄(実はそうでもないのだが)のストラヴィンスキーと違って平々凡々の指揮者が振るとろくなことにならないこのバレエ音楽ブーレーズの「プルチネルラ」はどこまでも暖かく、愉悦に満ちて響く。そしてその暖かさと愉悦は、どこか諦念と惜別の影をちらつかせながら、おとぎ話のようなファンタジアを紡いでゆく。有名な「序曲」のフレーズが鳴り響いた瞬間に思わず涙が出てしまう。この節回しが泣けるとかそういうことじゃなくて、もう鳴った瞬間にギュッと胸が締め付けられてしまう、そういう音楽をブーレーズはここで成し遂げている。理屈でなしに、そういうものなのだ。ちなみに「うぐいすの歌」はストラヴィンスキーの音楽史上最高度に気が狂った作品なので、こちらもブーレーズは作品の暴力性を失うことなくクールに処理していて、これはこれで面白い。

 

4.ヘンデル-水上の音楽、王宮の花火の音楽…ニューヨーク・フィルハーモニックSONY、1974年

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バーンスタインの後釜としてブーレーズNYPで行った偉業の数々は計り知れないが、個人的にはNYPとの最高の仕事はこのヘンデルを推したい。恐らく90~00年代のブーレーズがEICを振っても味わい深くなったと思うのだが、極限的に磨き上げられ、バロックの馥郁たる香りもロココ趣味的な淡く華やかな色彩感もどこかへ消し飛び、ただひたすらにCD2枚に渡ってヴィヴィッドな造形感覚とオーケストラ芸術の髄だけが乱舞するという、超絶パンクなヘンデル

 

5.ラヴェル-管弦楽曲集…ニューヨーク・フィルハーモニック/クリーヴランド管弦楽団SONY、1969~74年

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多分ブーレーズNYP時代の録音と言えば、これとストラヴィンスキーの「ハルサイ」「火の鳥」、あとドビュッシー管弦楽曲集が三大なんちゃらということになるのだろう。ここでのブーレーズラヴェルはとにかく激エロ、とんでもないスタイル抜群の美女のあられもないまぐわいを見せつけられて思わずこちらが目を背けてしまうような白昼堂々の豪奢な淫微さが横溢している。エログロなクリーヴランドとの「ダフニス」、果てしない明晰さが陶酔的でさえある「マ・メール・ロワ」もいいが、遅いテンポで聴き手の神経を20分弱かけて蝕んでいく「ラ・ヴァルス」が至高。これらのゴージャスでリュクスでエロスにまみれたラヴェルに比べればインバル/フランス国立管のラヴェルなんていうのは同じエロでもそのチープさにおいてコンビニのビニ本同然。

 

6.ワーグナー-舞台神聖祝典劇「パルジファル」…バイロイト祝祭管弦楽団、DG、1970年

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中学1年生の僕は「トリスタンとイゾルデ」「ローエングリン」の麻薬的な世界観と音楽にすっかりやられて日がな対訳本を読みふける善良なワグネリアンと化していた訳ですが、ブーレーズの「パルジファル」を初めて聴いてからというもの、もう気が狂わんばかりにハマってしまい、訳本なんぞ投げ出して1日に3回はフルで「パルジファル」(4時間弱)を聴きまくるという生活を冬休み中毎日していたら無事頭がおかしくなりました。ちなみに今でも「パルジファル」の筋は分かりません。ドラマトゥルギーとは一切無縁の音楽の説得力だけでザクザク進むワーグナーは多分今でもシャブ的な中毒性を持って新たなワグネリアンを生み続けることでしょう。ちなみに僕のメール受信時の着メロは今でもブーレーズパルジファル」の「聖餐の動機」です。

 

7.ベルリオーズ-幻想交響曲ロンドン交響楽団SONY、1970年

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性欲と暴力を剥ぎ取られたベルリオーズは、一体何をもって作品を駆動せしめるのか?という問いに対して、オーセンティシティの観点からの回答の一つの究極形は恐らくコリン・デイヴィスのそれだろう。ウォームな響きとがっしりと揺るぎない造形への意志は、ベルリオーズベートーヴェン的な交響曲作家として位置づけていく。そしてアナーキズムからの回答がブーレーズの「幻想」だ。解体を超えて脱構築的ですらある無表情で非情な響きは、ベルリオーズという作曲家を狂気の一点に向けて還元していく。4,5楽章のあまりにも「やり過ぎ」な行進とサバトの夜は、シャルル・ミュンシュのケツを蹴り上げるには充分過ぎるほどに過激で、残酷。

 

8.ベルク-歌劇「ヴォツェック」…パリ・オペラ座管弦楽団SONY、1966年

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正直化け物じみた録音が跳梁跋扈するこの曲においてブーレーズは少しだけ分が悪いのだが、「お前パリ・オペラを爆破しろとか言ってたじゃねーか!!」的なアンビヴァレンツも含めた面白さということで。とにかくセクシーなベルクのスコアを、隠れスケベであるブーレーズパリ・オペラ座管というとろけそうなオーケストラで出力したらどうなるかというと、これが意外なほどにクールなのだ。まあアバド/WPhやマデルナ/ハンブルク・フィルといった超絶セクシーなベルクを聴いた耳からすると、という面もあろうが、自らの中にあるエロティシズムを抑制したキリリと辛口な手触りの「ヴォツェック」は、ロマン派最後の末裔としてのベルクではなくシェーンベルクヴェーベルンといった新ウィーン楽派の紛れもない先駆としてのベルクの姿を鮮やかに浮かび上がらせる。しかし、行間のエロスが耐え切れずこぼれてしまう「間奏曲」は、身悶えするほどに淫猥、と言えるかもしれない。

 

9.ストラヴィンスキー-バレエ音楽春の祭典」…クリーヴランド管弦楽団SONY、1969年

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まあこれをブーレーズの録音を語る上で語らなければモグリでしょう。今ではもう古くなってしまったかもしれないが、リズムと音響の交錯としてここまでスキャンダラスに「ハルサイ」を描出したブーレーズの手腕。この録音がなければ、サロネンも、カンブルランも、ラトルも、誰も生まれることはなかったと思うと、ストラヴィンスキーという作曲家の巨大さとブーレーズの鋭さには背筋の寒くなる思いがする。

 

10.ラヴェル-ピアノ協奏曲、左手のためのピアノ協奏曲…ピエール・ロラン・エマール(pf)、クリーヴランド管弦楽団、DG、2010年

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グラモフォンは仕事にムラのあるレーベルで、上記のマーラーのような素晴らしい録音をドロップするかと思えば、このラヴェルやハーディング/WPhのマーラー10番のようにマイクに布団でもかぶせたかのような異常に音像が遠く立体感のない録音を平気でしたりする(多分エンジニアの問題)。ということで大分録音で損をしているきらいはあるが、「キレはないがメチャ精密」というDG以降のブーレーズの美点であり最大の欠点を、ラヴェルという彼が最も得意とするレパートリーの一つで聴けるCD。アントルモンとの同曲の演奏ではバチバチにピアノとシノギを削っていたブーレーズのオーケストラは、テン年代に至ってぬるりと脱力的なテクスチュアでピアノに寄り添うことになった。両手の方の2楽章なんか、レーグナー盤では「マ・メール・ロワ」もかくやと思わせる幻想庭園の世界が現れていたが、このブーレーズの無感動はスゴい。「幻想」で見せた、意地と情熱の無表情ではなくて、もう単に音楽の表情がユルフンなだけという感じさえする。そのくせコントロールはキチキチしているのでタチが悪い。その代わりと言ってはなんだが、エマールのピアノは大奮闘、ありったけの表現と色彩のパレットを駆使してラヴェルの音絵巻を展開してくれる。余白の「鏡」は豊穣で余裕たっぷりのエマールのピアニズムが堪能できる(ただし録音はダメ)。ブーレーズの奇演、ということで10位にランクイン。

 

ちなみに、ブーレーズの作品でベスト5(10を作れるほど聴いてない)を作るとすると、

1.ノタシオン(ピアノ版が最高。オーケストラは若干映画音楽のように甘ったるくなりすぎるきらいがあるが、強いて言えばヘンスラーのギーレン/SWR響がよい)

2.プリ・スロン・プリ(Arteのネットアーカイブで聴いたEICだったかコンセルトヘボウだったかとの演奏は、もうめちゃくちゃにセクシーというかエッチだった)

3.ピアノ・ソナタ第2番(現代音楽における最大のメルクマール)

4.二重の影の対話(SWRのネットラジオで流れてきてビビった。マルティン・フロストというクラリネット奏者を知ったのもこの曲だった)

5.構造Ⅰ/Ⅱ(DCPRGではない)

って感じです。もっと「プリ」とか「マルトー」とか「ルポン」とかは日本のプロオケも挑戦すればいいのにと思うのですが、まあやっぱり難易度と採算のコストパフォーマンスは最悪なのでしょう。ともあれ、好きでした、ブーレーズ。寂しい。

predia東名阪ツアーファイナル8/30@渋谷Club Quattro

アイドルで評論めいたことを言うのってまあなんというか控え目に言って死ぬほど嫌いなんですが、今日のprediaがあまりにも良かったのでひたすら良かった良かったって言うだけの記事を書きたいと思います。多分predia知らない人はあんまり面白くないと思います。というか、これ2015年初のブログ投稿なんですよね。書きかけのエントリが5個ぐらい溜まってますが、上梓の予定は特にありません。

 

 

これまでprediaのワンマンは計3回行ってて、特に前回のBLAZEは結構感動的だったんだけどなんといっても物語的な要素がどうもね…。そりゃまあ、リベンジマッチ的な意味合いがあるのはメンバーのTwitterとかブログとか見るといっぱい書いてあるししょうがないのは分かるんだけど、もはやアレルギーに近いものがあるので。「You're my Hero」がかかった時「は、はあ…」となってしまうのは僕の性格の悪さです。元々prediaにハマったのもそういう部分が希薄だからで(評論家めいてきた)、積み重ねてきたものをパフォーマンス以外のところでドカーンと見せられるとドドドドド新規の自分なんかは一歩引いてしまうっていうのはまあ、しょうがないっすね。

という経験があっての今日のワンマンだったんですが、そういう悲愴さとか「会場を埋めなきゃ!」みたいなメンバーの焦りもなくて、MCは必要最低限で昔の曲とメジャー以後の曲を織り交ぜながらザクザク進んでいく展開が本当サイコーでした。まあクアトロ埋まってなかったけどあのくらいが観やすい(BLAZEは満員電車状態で殆ど見えなかったし、ヤクルトホールみたいに着席がいい…FC限定でマウントレーニアとかシブゲキでライブしてほしい…)ので丁度良かった。売れて欲しい古参の人には申し訳ないが。以降印象に残ったシーンを点描的に。

 

・Dream of Love〜夜想曲〜Mid9t Luv〜Voyage〜美しき孤独たちの流れ、正直Mid9t Luv以外は割と食傷気味なんですが、クアトロのデカいんだけど綺麗に鳴り切る音響も味方して特にDream of Loveは一発目でブチ上がった(湊あかねのラストのファルセットは聴く度にヤベエなと…)。出囃子が変わってたのも良かったですね。Mid9t Luvでニコニコ振りコピしたのとか、もうリリイベ含めたら去年の暮れからだから20回近くpredia生で観てるが初めてやってしまった。predia以外だとステージ観ないで騒いでるだけなのであまり比較にならないが。

 

・ハニーB〜Cherry Loveの流れで落涙(してない)。やっぱりprediaのこういう陽性のレアグルーヴが聴きたいよね…とブツブツ呟く(してない)。余談ですがこの流れでブチ沸いてた知り合いのヲタクさんが満たしてアモーレで水を打ったように静まってて後ろでメチャクチャ笑ってしまいました。自分は満たしてアモーレはタキツバ+ドラムンベースっていうクソダサいマッシュアップが意外と嫌いではないんですがまあダサいことには変わりないので…。そういえば大体この枠の常連のSparklingとかシルキーレインは今回やらなかったけどハニーBやってくれたので大大大満足です!!!!!ハニーBは最高!!!!神!!!!!Dia Loveはやってほしかったけど!!!!!でもハニーB最高!!!!!

 

・HEY BOY前のインストの場繋ぎダンス、幾らなんでもエロ過ぎでしょ…。椅子とかステッキを使って色っぽいダンスをするのはまあよく見る演出だしTPDなんかもやってたけど要するに疑似ストリップとしての演出だった訳で、下品にならないようにそういう場面は演出されてたけどprediaはストリップそのものっていうかもはや卑猥というか…。水野まいのケツが!松本ルナの股間が!!ああっ青山さん股間に湊さんの頭をあてがうのはダメ!!!って感じで見応えがありました。SDN48は公演を18禁にしてたらしいけどこんなものをいたいけなピンチケに見せたら精巣が爆発してしまう。曲自体は端正な顔立ちの前田さんがサビで険しい表情をするのがとても良いと思いました。

 

・願い、湊&村上の弾き語りだったけど弾き語りでやる必要あるんかな…。村上瑠美奈さんのピアノが意外と訥々としていて(まあ要するにあんまり上手くないんですけど)、ああルミナ様にも弱点はあるんだなと安心した。

 

・壊れた愛の果てに〜you slipped away〜イトシキヒトヘ〜Going to Rideのノンストップのラストスパートは、久々にアイドルのライブで鳥肌が立った(2012年の女子流野音以来かな…)。そうそう、こういうのが観たかったんだよね僕は、と言いたくなるハイテンション・ハイスピードでブッちぎっていく感覚がたまらない。こういう高カロリーのステージを観て思うのはやっぱり湊あかねという存在のヴァイタルは本当に凄まじくて、フェイクやファルセットがバシバシ決まりまくるという以上に華があるということ。3月だかのカルチャーズで湊さんがポリープか何かが出来て声が出難くなってしまった回があって、自分はそれを観に行ったんだけどやっぱり村上・桜子・その他のメンバーでなんとか乗り切ってたもののやっぱりかなり大きい欠落を感じたのもまた事実で、prediaというグループ自体がかなり湊あかねの存在の上に成り立ってる、という部分は相当大きいと感じてしまったことがあるだけに、今日の湊さんの絶好調ぶりは畏怖に近いものを感じました。メンバーの中で自分が一番好きなのは沢口けいこさんで、彼女も歌は普通に上手いし踊りのキレもかなりあって竹中先生にも褒められてたけど、そういう高いアヴェレージで云々、という次元を遥かに超えたところに湊あかねがいるんだな、と思わざるを得ないステージングでした。Twitterで趣味の話とか一切しないストイシズムも良いですよね(モンストの話しかしない某二人は本当に勘弁してほしい…まあ沢口さんなんですけど…)。イトシキヒトへの湊さんの絶唱を聴いて俺が今までアイドルだと思っていたものはなんだったんだ、という気分になりました。いや本当に。

 

・Wedding StoryとBABY KISSの陽性prediaメジャー楽曲二大巨頭はまあいつも通りっちゃいつも通りなんですけど、なんかこう、いいよね、としか言えない何かがあって、いいよね(思考停止)。青山玲子さんと前田ゆうさんが後ろの方でキスしてて、いいよね、ってなりました。

 

・Do The Party、生で初めて聴いたけどドチャクソジャージャー曲やんけ…。まあprediaは静かに観る、という特に誰も得しないルールを自分に課しているので別によっしゃ行ったりはしなかったんですけどよっしゃ行きたい曲なのでpalet辺りが適当に対バンか何かでカバーしてほしい。多分ペインカス動物園なら好き放題ガン沸き倒して楽しいと思うので。

 

曲以外のところでは生誕の部分が適度な尺だったので非常にコンパクトな感じでダレなかったのが好印象でした。あとMCで水野まいが本当に一切喋ってなかったのは水野推しからするとどうなんだろうなあ…逆に浮いてたからなあ…。

 

一応ブログというか、長文をしたためるときは何回か読み直して冗語的になってるところを他の言い回しに変えたりしてるんですが今回は特にそういうのはないので全体的に脳ミソ垂れ流しのだらしない文章になってる気がするけどまあ自己満足だし良いでしょう。卒論とかでだらしない文章最近書いてないし!ちなみに卒論は9/1に6割方まとめて仮提出ですがまだ半分も書き上がってねえよバーカ!!12月の5周年パーティーも行きます(まだチケット取ってないけど)!JKの沸きたがりアイドルはクソ!可愛いだけじゃ物足りない大人の遊び場が最高!predia最高!

2014年総括

Twitterを見ていると有識者の数々が今年の年間ベストアルバム/トラックとかベスト映画を発表していてふむふむなるほど、とはなるのだが、さて今年の自分がそんなものを作れるぐらい色んなものを見たり聴いたりしたかと問われると全くそうでもなくて、しかし自意識遊びはしたいという…。という訳で、ランキング形式ではないものの、今年触れたものへの所感を各分野ごとにざっくりと。

 

・音楽

-クラシック音楽

今年はとにかく30年代生まれ付近の名匠達が次々と鬼籍に入った1年で、良くも悪くもクラシック音楽の歴史が流動的なものであることを痛感させられた。このことについては過去エントリで詳しく書いたのでここではあまり触れないが、そもそもクラシック音楽を聴く、という行為が懐古的で後ろめたい倒錯的な楽しみであって、つまりは今のクラシック音楽を聴いている我々リスナー自身もクラシック音楽の歴史となることを引き受けることに違いないのである。来年はどのプレイヤーが…というのは悪趣味だが、それもまたこのジャンルの持つ宿命ということだろう。印象に残ったディスクとしては、ポーランドショパン協会がブリュッヘン追悼としてリリースしたクルピンスキの「モジャイスキの戦い」とベートーヴェン交響曲第3番をカップリングしたものがある(NIFC)。まあベートーヴェンの3番は2005年の録音とのことで自分が聴いた演奏とは10年弱のラグがある訳だが、ここで聴けるブリュッヘンベートーヴェンは極めて運動性に優れ、全盛期のPHILIPSにおける溌剌としたオリジナル楽器の響きに満ちている。ただやはり生で聴いた死臭漂う異形のベートーヴェンを思うと、この10年の間にブリュッヘンに何があったのだろう…と考えざるを得ない。また、カンブルラン/読響によるディスクも2枚リリースされた(Altus)。完成度は勿論高いし、ハルサイはSWR響と入れた盤(Hänssler)よりも格段にライヴの「ノリ」に満ちていてよりホールにおけるカンブルランの様を伝えてはいる。しかし、わざわざここで「カンブルラン/読響」のハルサイをリリースする意味がよく分からないというか、必然性がない気がする。同曲異演が多いこのジャンルだからこそだが、カンブルランが読響とやった仕事のうちでも意義深いものというのは限られていたはずで、細川のヒロシマ・レクイエムやマーラーの6番など読響という極東のオーケストラでやる意味があった公演は他にも存在すると思う。まあそれを聴いているのは他ならぬ我々ではあるのだが。

-その他

クラシック音楽以外では岡村靖幸やブラックミュージックなどをよく聴いた。岡村ちゃんに関しては何を今更という感じだが、スーツを着こなしパワフルに歌い踊る彼はポップミュージックが皮相になることなくまだこの国のチャートを変革出来るんだ、ということを軽やかに告発していた。11月にリリースされた「彼氏になって優しくなって」は勿論のこと、小出祐介との「愛はおしゃれじゃない」(c/wの「ラブビデオ」も最高!)は2014年のサウンドトラックとして記憶されるに相応しい楽曲群だろう。ブラックミュージックは完全にTwitterで関わった方々から受けた影響だが、特にデトロイトテクノ、ディープハウス関連の音楽は下半期よく聴いた。こんなことを改まって言うのは恥ずかしいがSoundCloudとは恐ろしいメディアで、Moodymannの「Collection」がフルで聴けたりするのは何と言うか中古屋のディグがいささか古めいた、フェティッシュな愉悦と言われても仕方無いような便利さを感じる一方、やや寂しい。とはいえ思いっきりその恩恵に与っているのは他でもない自分のような金がなくてジャンルに対する知見も浅いような人間であって、こういうメディアを利用しない手はない。基本的に重いキックの四つ打ちとクラシカルなファンク/R&Bのサンプリングが鳴ってれば今の所は満足してしまうような状態なのであまり偉いことは言えないが、Vince Watsonのデトロイトテクノ詰め合わせ(3時間!)とシカゴハウスの仙人DJ、Sadar BaharのプレイはSCでよく聴いたものです。以下リンク。


Vince Watson - Detroit Classics Part 3 by vincewatson - Hear the world’s sounds

全部聴いたがパート3が一番しっくり来た。Kenny Larkinの熱を帯びて行くBPM高めのトラックでカロリーを上げてRhythim is RhythimCarl Craigと怒濤のデトロイトラシックスに雪崩れ込む冒頭の構成はいつ聴いても恍惚。ちなみに入っている曲はここで見れる。http://www.percussionlab.com/sets/vince_watson/detroit_classics_vol_3


Warm Up For Sadar Bahar @ Funkloch 18.mai 2013 by Cuttlefish & Asparagus - Hear the world’s sounds

Sadar BaharのFunklochにおけるDJプレイ一部始終。エフェクトやキックの抜き方はいささか時代を感じないでもないが、スピンのセンスの良さと終始BPM96〜132で下半身から踊らせに来る黒いグルーヴの運びは横綱相撲感がある。30分付近でゴリゴリのキックに乗ったファンクのサンプリングが突然中断されて濃密なアナログシンセ(?)がメロウに響くところなんかはまさにエクスタシー。

あとこの辺の音楽で凄いのはフリーダウンロード出来るイイ曲の多さ。今年出た新譜だけでもCakes da Killa、All about She、Run the Jewels…まあなんというか、良い時代になったものです。Moodymannもフリーダウンロード出来るアルバム(「Picture This」)があるので聴いてみたけどこれはそんなグッと来なかった。ケチってないで今年出た「Moodymann」を早く聴かなければ…。

 

・映画

上半期は比較的頑張って劇場に通ったりレンタルしたりしていたものの、完全に9月10月で失速、今月に至っては2本しか観ていない…。映画は個人的には儀式めいた環境で鑑賞するものというか音楽のように持ち運べるものではないと思っているので、とかいう言い訳。今月シネマヴェーラで観た曽根中生の「天使のはらわた 赤い教室」「赤い暴行」はシビれた。前者は「覗き見」を全編に通底するモチーフとして反復し、ついに最後の小屋における見せ物セックスシーンで冒頭のブルーフィルムへと欲望の視線が回帰していく様はまさに映画的。後者は二回目の鑑賞となったが、どうということないはずのデビルズの演奏が男たちの運命の集合体として響くラストの「SILENCE」はいつ観ても感動してしまう。ただ、これは気のせいかもしれないが去年の秋にオーディトリウム渋谷で観たときの方が音がデカかった気がしたんだけどもこれは劇場の作りによるものだろうか。あとは夏のイメージフォーラムにおけるベロッキオ特集で観た「エンリコ四世」は強烈だった。「ポケットの中の握り拳」を目当てに行ったのだけどこちらのピアソラの音楽とそのメタ性により感動してしまった。マストロヤンニが根本的に喜劇的な役者であることを思い知らされたし、こういったパラレルな映画を撮れる監督が21世紀において「眠れる美女」という極上の死を巡るメロドラマを作り果せたことに深い感慨を覚える。あとは今年は新作を全くと言っていいほど観なかったので、来年はもう少し今の映画シーンにも敏感になりたい。

 

・アイドル

あんまりアイドルで評論めいたことは言いたくないのだがまあ年の瀬だし…。下半期は特にアイドルを観た気がする。特に東京パフォーマンスドールは4回ほどリリイベにも足を運んで(川口と豊洲が遠かった)、Zepp DiverCityのワンマンも観た。そのパフォーマンスの純化された完成度と握手の楽しさは何度行っても癒されるし元気が出るし、何よりその今となっては歌と踊り以外のところでウケを狙おうとするアイドルシーンにおいて古めかしくさえある身体性(言いたくなかった言葉)の美しさを追い求める姿勢が何より感動的だ。ただ、ある程度回数を観て思ったのは、彼女らの脱人称化されたコンセプトは物語が好きじゃない自分にとってはしっくり来るのだが、難を言うとすれば楽曲にあまりひねりがなく良く言えば聴きやすく、悪く言えばどれも同じように聴こえてしまうということと、現場にいるオタクが年齢の割には騒ぎたがりみたいなのが多くて見苦しく居心地がよくないのが何となくの感想。あとは彼女らのレギュラー番組「東京号泣教室」(TOKYO MX)を観ているとみんな良い子なんだけどあんまり彼女ら自身が面白くないかもしれないという…。まあ「NOGIBINGO!」みたいにアイドルを雑に扱って無理矢理面白くしてスベったときみたいな悲惨さはないのでその辺は良いのかも知れませんが。年末、これまで48Gを観まくってハイティーンに疲弊した結果、prediaにハマっているのは自分でもここに来たか…という気分になってしまうが、Youtubeに上がっている「接近predia」とかAKIBAカルチャーズ劇場での定期公演を観ると蓮っ葉な彼女らのキャラクターと荒削りながらバイタリティ溢れるパフォーマンスのギャップは今までに無い求心力を感じたし、2015年はここで決めるぞと久しぶりに思えたアイドルだった。何か一つの物語に向かって頑張るぞ、という陳腐なストーリーが雨後の筍のごとく乱立する中で(乱立することによって陳腐になっているとも言えるかもしれない)彼女らの力の抜けた、しかし誠実なあり方は一つの位相として説得力を持っていると言えるだろう。曲も低域が充実したダンスミュージックで聴いていて単純に楽しい。あとは下半期一番通ったアイドルというのが実はありまして、メンバーの卒業委員とかもやったりしたんだけども…。あえてこのアイドルの名前は出さないしこの文章を読んだ知り合いのオタクにあんまり頭でっかちなことを書くとバカにされる気がするので本当に上澄みだけ触れるが、はっきり言ってあんなに露悪的なアイドルのプロデュースのあり方はただ騒ぐために行くならまだしもまともに付き合ってはとてもいられないと思ってしまう。アイドル達本人が悪いのではなく、アイドルをコマにして後ろの大人たちが四の五のやっている様は本当に気分が悪いし(既存のアイドルのシステムの猿真似をして悦に入ってるのがグロテスクとしか言いようがない)、だからこそ好き放題やってないととても見られたものではない。あの場所に真実味を見出す人が居たとしてもそれは責められるべきではないしアイドルの価値がオタクに完全に依存するというのは分かるのだが…。知り合いと騒ぐため以外では殆どあのアイドルに価値を見出すことなく半年間通い続けたが、2015年はもっと現場に対する感覚を大切にしたいと思うきっかけになったという意味では意義深かった、のかなあ…。どうせこんなことを言いつつ行くことは行くのだろうけど、思考停止するんじゃなくてもう少しお金とか時間とかを大切にしながら行くようにはしたい。

 

2015年もよろしくお願いします。

12/4シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団@サントリーホール

いきなり大上段に構えるというか風呂敷を広げるのもどうかと思うが、自分ははっきり言って今のクラシック音楽界全体になんとなく絶望している。それは何も日本のシーンに限った話ではなくて、世界規模でクラシック音楽という芸術が昔(思い浮かべる「昔」はフルトヴェングラートスカニーニの活躍していた40~50年代でも、ヴァントとチェリビダッケが幅を利かせていた90年代でもいい)持っていたアクチュアリティ、またこの横文字が抽象的に過ぎるならばクラシック音楽しか持ち得なかった終わりなき日常からの突破口とでも言うべきものに対して無関心になってしまったのだと思う。レブレヒトの露悪的な著書を挙げるまでもなく、クラシック音楽シーンという極めて特異な空間は常に、いつの時代でも「巨匠(マエストロ)」を欲した。ところがこのジャンルの宿命である再現芸術のあり方というのは時代の趨勢によって移り行くものであることは自明であって、もう分厚い弦と倍管編成でモーツァルトをやる時代ではなくなったし(それが良いか悪いかは別として)、クラシック音楽の世紀は演奏解釈が様々なものになり演奏家が互いの方法論を認め合うポストモダニスティックな時代となった。その中で、19世紀後半〜20世紀前半の香りをコンサートホールで伝えてくれる人々というのはアンビヴァレンツな魅力に満ちていたのであり、そういった人々が「巨匠」と呼ばれていたのだと思う。しかし2010年代に突入して、次々と前時代のオーラをまとった巨匠達は鬼籍に入っていった。代わりに残ったのは腐敗した指揮者コンクール制度と商業主義的なレーベルのマーケティング(とはいえクラシック音楽のマーケティングなんてたかが知れているのだが…)のみであった。かつてコンサートホールに、コンサートホール「だけ」に現れていた、終わりなき日常の破れ目はもう縫い合わされてしまったということを、痛烈に感じずにはいられないのである。懐古的だと、あまりにも感傷的だと言われてもしょうがないかもしれない。クラシック音楽は今やエンターテインメントであり、日常をブチ壊す何かではないんだから今のクラシックを楽しむことが一番健全なやり方なのではないか、と。しかし、自分はクラシック音楽は救いであり、演奏会の2時間だけは自分をどこか遠くへと連れ去って行ってくれる何かであり、またそういう芸術であってほしいと本気で思っている。例えそれが21世紀を迎えた今グロテスクなリスナーの考えであったとしても、その想いが捨て切れない故に今のクラシック音楽界には絶望しているとさえ言えてしまうし、そのことはとても悲しいことだ。

 

のっけからしょうもないネガティブな自分語りをしてしまったが、今回のカンブルラン/読響のタッグが成し遂げたそれは、結論から言ってしまえば上記の今のクラシック音楽界における一条の希望の光のような、まだこの世界に見切りをつけることは早いと思わせてくれた素晴らしい演奏だった。ところどころほつれはあっただろうし、決してメシアニストであるカンブルランからすれば完璧な「トゥーランガリラ」ではなかっただろう。しかし、そこには誠意と情熱があった。サントリーホールに会した、この演奏会に「挑もう」とする聴衆に対してカンブルランと読響は絶対に手を抜かなかったし、その姿を見て自分は伝統でも革命でもない、全く新しいクラシック音楽の手触りを感じた。そして、このような演奏にまだコンサートホールで出会うことが出来るのならば、もう少し日本のクラシック音楽界に、もしくはこの今のクラシック音楽に対して希望を持ってもいいのかも知れないと柄にもなく思ったのだった。

 

酒井健治-ブルー・コンチェルト(世界初演

日本初演は何回か生で聴いたことがあっても世界初演というのにはついぞ立ち会ったことがなかったが(今年度自分が所属する団体で世界初演の作品を演奏するのだが)、やはり何かこれまで音として(物理的現象として)形になったことのない作品が目の前で再創造されていくプロセスに立ち会う瞬間は気持ち良い緊張感と期待感がホールを満たしている感覚が確かにあって、あーこの感じ久しぶりだなあと妙な感慨に襲われた。カンブルランはまあ案の定というか、こういった作品に対しても非常にこなれている指揮ぶりだったし、読響も響きのフォーカスが曲の出だしからビシッと定まっている感覚があって世界初演に相応しい演奏だったのではないかと。演奏会後の評判を見ると「トゥーランガリラ」のインパクトが強過ぎたのかあまりこの曲に対する感想を見かけなかったのだが、作曲者の酒井自身もそのプログラム・ノートにおいて陳述している通りメシアンへの強烈なオマージュとして作品の一定の強度は保たれている気がした。特に、響きへの感覚という視点で酒井はメシアンに対して並々ならぬリスペクトを惜しまない。楽曲後半において連発されるトゥッティの弦楽器と木管のオスティナート、そこに被せられる鍵盤系を中心とした複雑怪奇な打楽器群がどこか密教的な妖しさと、しかし矛盾を孕む形で清冽な感覚が同居しながら音楽全体のテンションが高揚していく感覚はまさにメシアンのそれであり、楽曲のそこここに潜む「トゥーランガリラ」のコラージュのみを取り上げてメシアンからの影響を指摘するのみでは終わらない面白さを持った作品である。演奏時間も17〜20分と手頃なサイズだし、Twitterで見かけた意見では「トゥーランガリラ0楽章って感じ」とあったが、まさにそのような意匠で作られている上にそれだけでは決してない、「今」の作曲家にしか出来ないことを「過去」の作曲家に向けたパスティーシュとして(決して陳腐な懐古趣味としてではなく)行っている点においてもこれからもっと演奏されていい作品だろう。惜しむらくは特殊打楽器の多さとそれに対して演奏効果が聴いた限りではそんなに上がっていないのではないかという部分だが(ウォーターフォンとかTwitterで読響打楽器の人が宣伝してたけど、動きを見ないとどれがウォーターフォンの音なのかまるで分からなかった)、まあこれは最後に押し寄せる音の波のカタルシスに比べれば些細な問題だ。演奏終了後、壇上に登ってカンブルランと酒井がお互いを讃え合うところで酒井がガチガチに緊張しているのを見てそりゃ緊張するよな、と卑近な親近感を持ってしまった(図々しい)。

 

オリヴィエ・メシアン-トゥーランガリラ交響曲(ピアノ:アンジェラ・ヒューイットオンド・マルトノ:シンシア・ミラー)

ここでまたしょうもない自分のオタク自分語りをさせてもらうと、自分がカンブルランの存在を知ったのは2009年で、当時ベルリオーズの「幻想」他を読響でやって評判が良かった云々、みたいな評が当時の読売新聞に掲載されていて、誰が執筆者だったかはもうよく覚えていないがその文を読んだ当時の自分は何故かめちゃくちゃ興奮した。当時からギーレンやらロスバウトやらを聴いてはブールの音源欲しさにディスクユニオンに通っていたようなガキだったので、まず「透かし彫り」とか「精緻な響き」というこの辺の指揮者には常套句のパンチラインに悶絶、次いで現在のポストはSWR響とのことで、こんな指揮者が日本のオーケストラの常任になるのかと考えただけで生きる希望が沸いてきたのをよく覚えている。そこから半年後ぐらい経って、カンブルランの読響就任記念演奏会に足を運んだ。実はこの「就任記念」の演奏会は二回あって、一つは定期におけるシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」を中心とするプログラム、もう一つはまさに「就任記念」とだけ題されたメモリアル・コンサートで、こちらはストラヴィンスキーの「春の祭典」が中心のものだった。そのどちらにも自分は足を運び、まだ両者の間に硬さはあるもののカンブルランが読響から引き出してきた透明でありながら豊潤な妖艶さを含んだ響きに陶酔したものだった。以後、ディスクを買いライブに足を運ぶ立派なカンブルランのオタクになった訳だが、何が言いたかったのかというとアイドルオタクっぽい言い方をすれば「カンブルラン読響就任記念新規」(超バカっぽい)であった自分にとっては、彼が初登場の2006年において演奏した「トゥーランガリラ」を聴くことが出来なかったのが何よりの無念だったんだ、という話で、何度彼のメシアン・ボックスで2008年にSWR響と録音したトゥーランガリラを聴きまくりながら何度2006年の公演に思いを馳せただろうか。ということで、本公演の「カンブルランのトゥーランガリラ」を聴くことは自分にとっての一つの夢だったのでありまして、自分の感想には少し誇張や脚色があるかもしれないが、それもまあ自分にとっては一つの真実であるということで(軟着陸)。

まずカンブルランという人はそれこそエゲツないくらい録音とライブでのアプローチが違う。彼のライブにおけるアプローチの根底にあるのは、「響き」と「グルーヴ(律動)」である。そんなの音楽においては当たり前なのかもしれないが、音楽が時間芸術であることのアプリオリな定めとして、音楽作品には必ず「構造」がつきまとう。数々の指揮者を初めとする演奏家が「いかに『構造』に則った演奏をするか?」に腐心してきたことは自明だが、そんな中カンブルランの方法論は明らかに異色だ。彼は構造には興味がなく、その瞬間、そのフレーズにおいていかにして響き(音色と言い換えてもいい)とグルーヴが絡み合い、フィジカルな快楽をもたらすかに対して動物的なまでに過敏に反応する。響きが響きを呼び、律動は次に来るべき律動を予感させなければならないという哲学は必ずしも全ての作品に効果的な結果をもたらす訳ではなく、例えばベートーヴェンにおける超高速テンポはガチガチのソナタ形式を瓦解させかねないほどだし、構造を失ったベートーヴェンは時に背骨を抜かれた人体のようにグロテスクに響く。表面は違えど、かつてチェリビダッケが指揮した同じ作曲家を思わせないでもない。しかし、ことオリヴィエ・メシアンという作曲家に対しては、「まさにこれだ!」と快哉を叫びたくなるほどに彼の方法論はピッタリとハマる。坂本龍一メシアンを従来のフランス音楽の文脈から逸脱した天才である、もしくは逆説的にフランスにしかないド派手な悪趣味スレスレのロマン主義の末裔としてメシアンを「第2次世界大戦後のベルリオーズ」と評したが、カンブルランがベルリオーズも得意レパートリーに入れていることを我々は忘れるべきではない。

そもそも、この「トゥーランガリラ」の背景にあるのは、メシアンの信仰であるカトリックインド哲学の奇妙なドッキングである。ヨーロッパ的戒律は東洋的な「愛」の思想によってドロドロに融解し、性的エクスタシーの完全肯定(この曲冒頭に現れる「彫像の主題」は勃起したペニスを、直後に聴こえる「花の主題」はヴァギナを、雄大で官能的な性格を持ち何度もモティーフ的に登場する「愛の主題」はその二つの主題の合一=セックスを表しているというのは日本を代表するポスト・メシアン作曲家である西村朗の弁である)を経て普遍的な「愛」が数々の混沌を解決しないまま強引に光の向こう側へ連れ去ってしまう化け物のようなこの作品を、カンブルランは連関と分断の差異を鮮やかに強調することによって響きの運動性を高めながら、決して皮相なスポーティさに堕することなくメシアンの「愛」を告発する。特に、この演奏会における1~5楽章のアプローチは超絶的であった。早めのテンポでオーケストラをドライヴしながら、各主題、動機を巧みに描き分けている。1楽章主部におけるグロテスクな管楽器とジュ・ド・タンブルの主旋律の下でヌラヌラと不安定なシンコペーションを刻む弦楽器が、次の小節では突如としてエロティックな歌をじっとりと歌い上げるその「分断」を官能的と言わずして何というのだろうか。2楽章後半部の濃密な盛り上がりは執拗に7分以上をかけて繰り返される2つのフレーズがあってこそだが、その積み重ねにおいてもカンブルランは1回の繰り返しごとに追い込むことをやめないし、そこからもたらされるカタルシスは絶大だ。実際、2楽章が終わった直後はそのあまりの熱量に涙してしまった。一つの主題が空間的に呼応することによってのみ音楽の造形が縁取られる3楽章、あらゆる要素がパラレルに配置され結果的に一つの響きへ収斂していくことそのものが感動的な第4楽章を経て、怒濤の5楽章へと雪崩れ込む。まあこういう時には言葉は無力だなと感じるしかなくて、とにかくオケが崩壊するギリギリのハイスピードで、しかし浮かんでは消えるその響きの跡には淡く階層化された色彩が滲んでいた。カンブルランは音楽にノると膝を低くして(重心を下げて)全ての指揮ぶりがオケに向かって前のめる感じで拍を取るのがあまり見られないというか特徴的な動きなのだが、ここ4〜5年彼の指揮する演奏会に足を運んできてあんなに激しい「例の見振り」を見たのは初めてである。

こんな感じで全楽章に言及していくと切りがないのでここら辺にしておくが、その10楽章においてハイテンションでガチャガチャと鳴りまくる全ての楽器が、最後「愛の主題」の出現によって一つになるとき、そこには決してドイツ音楽などには見ることの出来ない、ある種の奇形的なドラマトゥルギーがあの瞬間に宿っていたことは確かで、突然うるさくなったり突然静かになったりという音楽が聴き手の生理を超越して繰り返され、それがまた唐突に、誰も意図しないところで機械仕掛けの神か最後の審判のごとく巨大な「愛」という抽象的なテーマに向かって止揚するとき、聴き手はただそこにぽっかりと口を開けた巨大な官能の渦に身を投げ出される。その、ただただなされるがままに底の知れない愛の響きに包まれたとき、人が覚えるのは安堵でも平安でもなく、恐怖と隣り合わせの快楽である。カンブルランと読響は、もしかしたら作品がその形を保てるかどうか分からないぐらいの危険性を孕むほどのスリリングなアンサンブルを乗り越えて聴き手をそこに投げ出してくれたし、あの時確かにサントリーホールに居合わせた聴衆の多くはその響きにどっぷりと淫していたと思う。そして問答無用に上り詰める最後のクレッシェンドで、またしても落涙。ホント、カンブルランに出会えて良かったなと、心から思った演奏会でした。

抽象的なことを言い過ぎたので少し音楽評論っぽいことを言っておくと、ヒューイットのピアノはオケに寄せ気味の響きで自分は嫌いじゃないんだけど、彼女のバッハ演奏においても言えることだがヒューイットの持ち味はその端正でキリリと辛口なタッチとそれを包含する深く長い呼吸のフレージングであり、そこがこの作品の持つある種の狂気に対してチギれてしまう瞬間というのは少なからず見受けられた所。また、ミラーのオンドはそこまで自己主張をすることはなく、あくまで弦楽器の色づけとしてのオンドとしての役割に徹していた印象。アレの仕組みはよく分かっていないんだけど、演奏途中でゲインを上げたり出来ないのかなあとか思う。3楽章とか6楽章でグオングオンオンドが鳴っていたら静謐さも何もあったもんじゃないので今回の演奏会ぐらいの音量で良いんだけど、5楽章や10楽章のグリッサンドは録音でさんざっぱらこの曲を聴いてる人間からするとプログレのシンセ顔負けの爆音でカマしてもいいんじゃないかなと思ったり思わなかったり。まあ、BRで今回は聴いてたけど、1階前列の人はオンドがデカ過ぎてキツいと言っていたし、ホール全体を考えたら適切な音量なのかもしれませんが。あとは、基本的にカンブルランとオケには自分は絶賛のスタンスだけど、決してほころびやミスが無かった訳じゃなくて、むしろところどころ「ヤバい、崩れる!」と思うような瞬間はちょいちょいあった。しかし問題はそこではなくて、オケの練度を超えたところでカンブルランは音楽をやろうとしていたし、恐らく読響もそれを分かっていたから今回のような演奏会が成り立ったのだろう。

 

演奏が終わった後、深い感動と共に虚脱感に襲われた。それはやっぱり、自分のクラシック音楽体験においてずっと渇望していた「カンブルランのトゥーランガリラ」を生で聴くことが出来て、しかもそれに裏切られるどころか期待を上回るものを見せてくれて、充実したと共に5年間楽しみだったものが終わってしまったことに対する惜しさみたいなものなんだろう(遠足を終えた小学生みたいな感想だ…)。しかし、来年の夏には今度はシュトゥットガルト国立歌劇場のメンバーを引き連れて、読響でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を演奏するというのだからまたこれは楽しみな事柄が出来たし、またこの演奏会を聴くまでは死ねないな、と思った。そしてまた冒頭の大上段の話に戻るが、自分はクラシック音楽というのはこういうものであってほしいと痛い程に思うし、というより自分の好きなものがシーン全体としてそうあってほしい。始まる前はそれが生きる理由になるほど楽しみで、接している時はそれが最高の幸せで、終わったら充実感の少しの悔しさがあって、そして次の機会をまた楽しみにする、という幸せの無限ループが出来るだけ長く続けばそれ自体がもう最高に幸せだ。「『それ』を体験するために生きている」と思わせてくれる何かがいっぱいある世の中なんて最高だけど残念ながらそうじゃないから自分はクラシック音楽とアイドルが好きなのであって、そしてせめて好きなものだけは心からそうあってほしいのだ。クラシック音楽界を含めたこんなどうしようもない世の中が、終わりのない日常がもしかしたらその好きなものに触れ続けることでどうしようもなくなくなる瞬間が訪れてとんでもない非日常への扉が開くかもしれないと思わせてくれるという意味で、カンブルランと読響は自分にとってのアイドルなのである。クラシック音楽、カンブルランと読響、やっぱり最高だ。

マエストロの死に際して思うこと

昨日、リコーダー奏者または指揮者のフランス・ブリュッヘンが亡くなったとの報せを聞いた。先日はロリン・マゼールの訃報に接したばかりだった。思えば今年はクラシック音楽界の「最後の」という枕詞で語られることが多い1930年代生まれの名匠が次々と旅立っていった年で、まず今年の始めにアバド、アルブレヒトマゼール、そしてブリュッヘン(ホルヴァートはよくあの年まで生きたなという感じだが)と、こう立て続けに亡くなられると悲しさとか悔しさとかではなく、ただただ喪失感を覚えるばかりで。とりわけマゼールブリュッヘンの死は中々込み上げるものがあった。マゼールは実演を聴くことこそ叶わなかったものの、彼のディスクには色々な場面で接して来た。バイエルン放響とのR.シュトラウスの真摯で豪快な音楽、若かりし頃のバリバリに尖ったウィーン・フィルとのチャイコフスキーシベリウス等を聴き、またミュンヘン・フィルを引き連れて来日したかと思えば突然N響や東響を振って「マゼールが日本のオケの音を変えた!」等の絶賛の嵐を見てはいつか生で聴きたいものだと思ったことが、今となってはあの時聴いておけば…という後悔の念に変わってしまった。ブリュッヘンは何と言っても(当ブログでも以前少し触れたが)2013年4月の手兵との来日が本当に最後になってしまったが、あのブリュッヘンベートーヴェンに触れることが出来たのは恐らく生涯の思い出となるだろう。テンポは這いずるように遅く、音楽は進むにつれて末端肥大的にグロテスクな膨張を見せ、その膨張に耐えかねるかのごとくオーケストラは時にブリュッヘンの要求に悲鳴を上げてミスを連発する。その解釈は明らかに古楽器の枠を逸脱していて、例えるならばそのエグ味はフルトヴェングラーアーベントロートなどの戦前〜戦後初期の大巨匠が持っていた作品への歪んだ愛情の成せる業と言えるかもしれない。その奇形的なフォルムでありながら強靭な一つの意志に貫かれたベートーヴェン交響曲第3番を聴きながら、これは先は長くないだろうと感じたものだが、その約1年半後予感が的中してしまうとは思っても見なかったことだ。

考えてみれば、1930年代に生まれた人々が亡くなるのは至極当たり前というか、特に大きい病気をやっていようとなかろうと大往生の部類に入ると思うのだが、それでもやはり実演に接したりライブの評判をよく見ていた演奏家が亡くなるのはショックが大きい。この独特の感情は、恐らくクラシック音楽界の、それも指揮者という職業の持つ特異性に起因するものな気がしていて、というのはクラシック音楽を聴くという行為それ自体が既に懐古的なものだからだ。何十年、何百年と前に作り出された音楽をこれまた何十年と前の演奏で聴くという甚だしく倒錯的な行為が最早当たり前と化しているこの世界において、演奏者の死は(ことに若いリスナーにとっては)歴史的な事実となってしまう。早い話が、自分達のような10代〜20代の世代にとってはモーツァルトベートーヴェンの死はカラヤンバーンスタインの死と受け取られ方においてそう変わらないのである。勿論、もう少し上の世代になると「カラヤン」等の固有名詞が「フルトヴェングラー」とか「トスカニーニ」になるだけで本質的に大きな隔たりはないだろう。そしてクラシック音楽家の死がリスナーにとってそういったものであることを踏まえた上で、ブリュッヘンマゼール、ましてやアバド等の世界的な指揮者の死をリアルタイムで知ることは即ち歴史に立ち会ってしまうことなのである。音盤の遥か向こうにではあっても確かに同じ時代の空気を吸っていた人物が巨大な「歴史」となってしまうことの喪失感を背負うこの感覚は、クラシック音楽というジャンルの持つ閉鎖性と倒錯が故ではないかとここ最近のマエストロの死に対してことに感じるのである。ロックスターの死は、語弊を恐れずに言えばその死が極めて特異な事実であるが故に華々しくあり得る。フレディ・マーキュリーエイズによる病死、カート・コバーンの銃による自殺等、本来彼らが健康であるか心身ともに万全の状態であるかすれば今現在も生きていて活動していてもおかしくないのだが、彼らの死が言わば「伝説」として語られるのはその「生きていてもおかしくない」が故に死の断絶感、特異性が強調されるためではないか。クラシック音楽においてもその「断絶」を不幸にも行った者にはカルロス・クライバーやヘルベルト・ケーゲル等の特別なケースがあるが、彼らの死が死のエピソードとして伝説化されることがそう無いのはクラシック音楽という囲いの中で「死」がごく当たり前に、通り過ぎるべき歴史の事実として存在しているからである。

だが、それでも。フランス・ブリュッヘンを始めとする偉大な才能を2014年に入って失ったことに対しては、あまりにも無念だと言わざるを得ない。TwitterとかブログでR.I.Pとか追悼とか書くのは亡くなった人物に対して誠実なようで不誠実であり、また軽薄な行為だと思っているのでそういうことはあえて言わないが、今この時にブリュッヘン18世紀オーケストラと吹き込んだ瑞々しいモーツァルト交響曲を聴いてああ良い音楽をしているなと感じることは、せめてあってもいいのではないかと思う。

7/20エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団@サントリーホール

前日まで行けるかどうか定かではなかったが、幸運にも金銭に恵まれたので(時間はこじ開けて)インバル/都響マーラーを聴きに行った。このコンビほどTwitterやらブログやらで喧伝される外国人指揮者と在京オケの組み合わせもないだろうと思うのだけども、インバルと都響の組み合わせを聴いたのは実際これが初めて。都響自体は2011年2月に二期会サロメ』をゾルテス指揮で聴いたのだけども、これは都響独特の硬質ながらゴージャスなサウンドがリヒャルトのマニエリ趣味全開のグロテスクな音楽によくマッチしていた秀演だったと思う。「と思う」とわざわざ断定的な書き方を避けたのは、この時のお目当てはペーター・コンヴィチュニーの演出だったからで、そのディストピア的な世界観を客席、ひいては会場の外にまで敷衍しながらもその現実の中で我々は救済を希求しなければならないというコンヴィチュニーのアツいメッセージにあまりに打ちのめされ、演奏の方はあんまり覚えていないというのが正直なところではある。ただ、あんまり悪い演奏という印象を持っていないということは健闘していたということだろう。多分。

 

で、本筋のインバルによるマーラー交響曲第10番だが、この曲は最早自分は溺愛しているといってもいい交響曲で、自らの浅く薄っぺらいクラシック音楽の聴体験の中の結構な割合を占めている。勿論独立して演奏されることも多い1楽章も散々聴いたし、クック補筆完成版も随分とハマった。思い入れも深く、また全曲版による実演に接することが保守派が多いクラシック音楽界では難しいこの曲のライブとあれば、それは期待値が上がらない訳もなく。しかし、この閾値まで上がりに上がった期待は、どうにも肩透かしで終わってしまったと言わざるを得ない。それは勿論、演奏のみのせいではないだろう。サントリーホール最前列の左端という最悪のクソ席(当日券だったからしょうがないんだけど、でもこの演奏だったら当日券で良かったかなという気もする)、隣で爆睡するオッサン、5楽章の冒頭でプログラムをめくりまくる客席、色々な要素がこの曲に心酔している自分にとっては気に食わなかったのかも知れない。だけれども、それを差し引いてもネットで大絶賛を浴びているインバルと都響に対するイメージは聴く前と聴いた後でかなりマイナスの方向に変わってしまったというしかないだろう。

そもそも、インバルにはフランクフルト放送交響楽団との有名な録音(DENON)が存在する。この多くの問題を抱える交響曲を「マーラー交響曲」として美しくソフィスティケートしたスマートな演奏ではあったが、あまりこの盤をじっくり刷り込んで行くことはしなかった。何故ならば、そこにはいびつなもの、マーラーのオリジナルではあり得なかったようなエグ味や逆にマーラーにしか書けなかった諦念とでも言うべき「10番にしかない何か」を聴き取ることが出来なかったからだと思う。5楽章の歌い込みは確かに素晴らしいが、中間楽章のおどけ、哀しみなどを経たカタルシスが存在せずにただただオーケストラのテクニカルな面白みがクローズアップされるばかりで、交響曲の構造とドラマによる感動は薄かった。勿論響きの美しさは特筆すべきもので、ラヴェルストラヴィンスキーでエゲツないドライヴ感覚を見せたインバルならではのオーケストラを聴く愉しみに満ちた演奏ではあるものの。そして、今回の都響との演奏は方針は同様でありながらも、フランクフルト放響との演奏では希薄だったドラマトゥルギーを大胆に導入し、白昼夢的な美しさと苦しみが同居しながらもマーラー独特の「もがき」を描き出す意欲的なものだった。とりわけ、5楽章末尾で弦楽器が13度のグリッサンドで慟哭する場面ではわざとボウイングを乱して生と死に対する嘆きを生々しく表現してみせるなどの意欲的な手法も見られたし、1楽章における丁寧で重心の低い響きの作り方はまさに万感をこめたといった風で、曲の開始と早々に鳥肌が立ったのを覚えている。何より嬉しかったのは、クック版第3稿では削られたと思しき4楽章終結部の大太鼓を入れていたことで、この「唐突に訪れるカタストロフ」の感覚はやはり大太鼓2発がないと中々味わえない。では、何が足りなかったのか?まず、都響の精度はこの日著しく低かった。音程の合わない内声(致命的だと思うんだけど)、音をポロポロ外す金管、これが「世界レベルのマーラーオーケストラ」とかTwitterでホメ殺されてる東京都交響楽団ですか、とイヤミなことを言いたくなるぐらいのミスの連発。特にホルンはメタメタで、1楽章でもミスは散見されたものの2楽章冒頭では屁のような低音を出して憚らず、5楽章のドソロでも決め切れず、一番の盛り上がりである1楽章主題回想が大ソリで提示される部分ではミスこそしなかったものの音程は全く合わない。勿論この曲は交響曲の末尾で1stホルンにダブルHiFisを要求する等ホルンの演奏難度は相当高いし、中々ライブ録音でここがバッチリ決まっているものは多くない。「ミスの有無が演奏の優劣じゃないだろう」という意見はまさしく正しい。しかし、何故こうまで口を極めて都響の演奏クオリティに対して難癖を付けるのかというのは、一つにインバルの解釈がオーケストラの高い性能を基盤としているものだからだ。劣悪な環境ではあったが、低弦の強調、注意深い弦と管のブレンドなど、極めてインバルの意図していた響きは精緻なものだったということは聴き取ることが出来た。その精緻さの上に上記のようなこの交響曲の持つドラマ性の発露が存在しているのであり、度々見られたミスやデリカシーのない発音はその解釈に水を差すものでしかない。自分の最も好きなマーラー10番の演奏として準・メルクルがMDR響(旧ライプツィヒ放送交響楽団)を指揮した、2011年のライプツィヒマーラー・フェスティバルにおけるパフォーマンスがある(未ディスク化)。はっきり言ってMDR響の技術はドイツの地方オケの域を出ず、また音色も硬くときおりトゥッティは濁る。しかし、ここにおいて実現されているのはマーラーの生へのなりふり構わないとすら言えるようなもがき、ヤケクソとしか表現しようのないぐらいムチャクチャなフォルテで叩き込まれる大太鼓から漏れ出てくるフルートの「最後の言葉」とそれを支える弦楽器の切実さであって、そういった一種アマチュア的な演奏の熱量と表現への意志がヴィルトゥオジティの問題を全くご破算にしてしまえるだけの強度を持っている。この強度によって、メルクルは「彼岸の交響曲」としての10番ではなく「此岸の交響曲」としての10番像を打ち立てることに完全に成功していた。しかもその此岸における生は希望や夢などではなく、どうしようもなく生臭く残酷な生ではあったが、それでもなお生きることを望まなければならないという不器用な生の希求だった。そこには様々なミスを乗り越えて響く魂の震えが確実にあった。インバルの棒の下の都響には、そういうような意志はなかったし、またインバルもそういう意図は無かったはずだ。それもそのはずで、インバルは最初からそんなことを表現しようとはしていなかった。高い技術と充実した響きによってもたらされる効果にプラスαで熟練の解釈を加えようとしていたはずであって、それに対して都響は明らかに応えることが出来なかったのである。

 

勿体無い演奏だなあ、イマイチだったなあと思いながら演奏が終了すると待ち構えていたかのようなブラヴォーが会場のそこかしこから飛びまくる。きっと、ここに居たいわゆる「都響信者・インバル信者」の人々は「今、ここ」において演奏されたマーラーの10番を聴いていたのではなく、インバルと都響が歩んで来た23年間の「物語」を聴き、またそれに浸っていたのだろう。その「物語」は時間を伴っているが故にその内部に居る人間にとっては美しいが、「物語」の外部に居る人間に対しては哀しみとも怒りともつかない、複雑な感情を喚起させずにはおれなかった。この「物語」とそれを取り巻く人々の哀しみと盲目性、何かに似てるなあと思ったら、アイドルの卒業ライブなのだと思った。エリアフ・インバルという「アイドル」が都響というグループから卒業してしまうという物語に浸る人々の姿は、奇妙にもアイドルの卒業を見送るオタク達の哀しい姿とダブって見えたのだった。朝比奈隆カール・ベームの公演を聴くことは叶わなかったけれど、おそらくこういう気持ち悪さがあったのだと思う。